生きる歓び Plaisir de Vivre。人生はつらし されど愉しく美しく:♪JourneyAbroad海外1960
2021-04-07T00:54:41+09:00
pretty-bacchus
人生は辛く哀しいことが多すぎる。でもアール&プレジール・ドゥ・ヴィーヴル生きる歓びをめざしたい。心豊かに美しくいつも明るく生きていきたい。 Photo by Keiko Katagiri (奈良桜井の聖林寺十一面観音菩薩 国宝)
Excite Blog
黄砂のニュースにい砂漠への旅をおもいだしています
http://keico.exblog.jp/240910865/
2021-04-02T23:33:00+09:00
2021-04-07T00:54:41+09:00
2021-04-03T01:37:48+09:00
pretty-bacchus
♪JourneyAbroad海外1960
2021年4月2日 金曜日 晴れ その一
政府は新型コロナウイルス感染拡大を防ぐため緊急事態宣言に準じた対応をとれる「まん延防止等重点措置」を大阪、兵庫、宮城の三府県に適用すと発表した。期間は五日から五月五日まで。飲食店に営業時間を午後8時まで短縮するよう要請するということで、また大変なことだろう。
今週はコロナ渦のニュースと共に黄砂が日本まで到達しているというニュースが気になっていたが少し落ち着いたのだろうか。
ウィキペディアによると<黄砂は中国大陸内陸部のタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠や黄土高原など、乾燥・半乾燥地域で、風によって数千メートルの高度にまで巻き上げられた土壌・鉱物粒子が偏西風に乗って日本に飛来し、大気中に浮遊あるいは降下する現象です。風によって大気中に舞い上げられた黄砂は、発生源地域周辺の農業生産や生活環境にしばしば重大な被害を与えるばかりでなく、大気中に浮遊し、黄砂粒子を核とした雲の発生・降水過程を通して地球全体の気候に影響を及ぼしています。また、海洋へも降下して、海洋表層のプランクトンへのミネラル分の供給を通して海洋の生態系にも大きな影響を与えていると考えられていますが、その量についてはまだ明確にはなっていません。>
世界に砂漠はたくさんあるのにどうして日本のニュースが大きくなるだろうと思ったら
やはりそれは西からの偏西風に乗ってやってくるようだ。
(2000年に撮影のタクラマカン砂漠)
砂漠。大きな砂漠は世界に十数カ所あると言う。
そのいくつを旅しているかしら?
最初に海外を訪れてから55年が経っている。
風光明媚な現代都市、裏寂れてしまった前世紀の遺物のような街、
山あり谷ありの旅の記憶の中に砂漠の記憶もたくさんある。
エジプトのサハラ砂漠、ヨルダンのワディラム砂漠、シリアのパルミラの遺跡への砂漠、
アラブ首長国連邦のリワ砂漠。
砂漠といえばオアシス!でゴビ砂漠の月牙泉、
死の砂漠はモンゴルのタクラマカン砂漠 / 新疆ウイグル自治区。
そういえばアメリカァの砂漠はあまり知らないような気がする。
まずはエジプトのサハラ砂漠は数回行っているかな?
ジャクリーヌとFさんとそしてツレアイと!
シリアとヨルダンのワディラム砂漠はASAHIの柳澤社長のグループと一緒に。
アラブ首長国連邦のリワ砂漠は仕事で!
アビダビから熱砂の砂漠をひた走り数時間でつくシャールジャの砂漠!
「アナンタラ・カスール・アル・サラブ・デザート・リゾート」
ここはなんと1980年代初めに仕事で行っているのだ!
ホテルメリディアンチェーンの日本代表としてアブダブ、クウェイトへ。
アブダビではレゼプションも開かれた!
女性が一人で中近東へ仕事の旅など考えられなかったその時代に
たった一人で乗り込んだ(いえ飛びこんだのです)。
黒いスーツをあつらえて黒いアタッシュケースを新しくして上下黒。
まだ現地の女性はターバンを巻いている時代だから、
色の白い東洋の女性がスカーフも巻かずに空港におりたったからそれはそれで大変なことだったのだろう。
ツレアイが中山大師に連絡をしてくれていたし
日本航空のアリガ支店長が通関後からずっとついてくださった。
Franceが親会社のホテルメリディアンチェーンが新しいホテルを作ることになり
現地の企業との可能性などをマーケティングし、そこに日本人をどんなふうに送るかというのが仕事だった。
すでにあるシェラトンホテルヒルトンホテルインターコンチネンタルホテルなどの総支配人にお話をいかがい
また商社の方々のお話もうかがってこれからの可能性などもリポートするのだから
それは大変であったが楽しい仕事であった。
ホテルメリディアンはフレンチで、このフレンチ+ Japaneseタッチを
どのように融合してここに新しいホテルを作るかと言うことも課題であった。
おもしろい仕事であった!
いつもならここは55度位の気温で何ヶ月も雨が降らないのだそうだだが
私が着いた翌日からニ日間大雨が降った。
砂漠は雨に流されたと思いきや、とんでもない翌日は走れでも走れども砂漠が続いていた。
どうやら私のミッションは成功したようでその後、日本女性も多く仕事で行くようになったよう。
(ブログには何度か書いていましたね)
https://keico.exblog.jp/240033777/
週末をゆっくりすごすことができました
2020年2月1日 土曜日 晴れ
https://keico.exblog.jp/240057247/
朝の光のなかで床に着きお昼に起きたら古い友人からメールが入っていました
2020年2月2日 日曜日 晴れ (遡って)
女性がまだ大きくなる羽ばたける時代ではなかったあの頃〜1980年代のはじめに、
わたしは中近東を始め多くの国を訪れての仕事をこなした。
エールフランスのパリの駐在員から帰って数年後についたのは
ホテルメリディアンチェーンの日本支社社長だった。(1981年)
最初の旅はパリの本社。そしてアブダビメリディアンのオープニングの準備の仕事。
黒のパンツスーツと黒のアタッシュと仕事モードでいったのに、空港に迎えもあったのに、
税関で小一時間もまたされることになったのだった。
(女性が一人で中近東に仕事の旅をするなどということは考えられない時代だったのですね!)
商社や現地の会社の方をお迎えしてのレセプションもいくつかこなした。
英語と日本語でのスピーチも!
当時の中山大使、JALの支店長の有賀さん、商社の知人などなど素敵な男性方に助けられて、
役目をこなすことができたのかもしれない。
翌日の現地の新聞にも大きく写真入りで報道された。
すでにあったヒルトンホテルやインターコン、シェラトンなどを視察したり、
当時中東で日本料理屋さんで成功していた方々にもお話しを聞いて、
私は数日の間に、マーケッティングをすませた。
帰りの機のなかで数十枚のレポートを書いて、帰国後仕上げてすぐにパリの本社に送付。
その結果というか、幸か不幸か次のプロジェクトの為に、また私はクウェイトやアラブ首長国連邦、
シャールジャ、そして東南アジア、アメリカなどにも行くことになったのだ、、、、、、、、。
(当時の地元新聞のガルフニュースに大きく記事が載った)
(右は外務省からの中山大使と左は日本航空の有賀支店長。
私はこのレセプションの為に、紺地に濃い渋朱色の切り替えの中に更紗模様を描いた着物を
デザインして創った。
それにしてもなんと細かったか〜〜〜目をつぶってしまっていて残念、、、)
病で倒れるまで、私は六年間一日も休まずに、
世界中のメリディアンチェーン関係のホテルなど数十ヶ国を回り、
また日本での広報&営業にも携わったのだ。
昼の仕事に加えて真夜中までレポートを書き
(まだ当時はPCで打てる時代ではなくタイプライターとテレックスの時代だった)。
ビルの警備のオジサンがいつもいつも心配をして一時間毎に見回りをしてくれたものだった。
アブダビメリディアンのオープニングの時は1980年代初め。
そう、あれからもう五十年弱にもなるのだ!
欧州やアメリカ、東南アジアに加えて、普通でもあまり日本人がいかなかった中近東の仕事に、
うら若き!細いチャーミングな日本女性が、たった一人で空港におりたったのだから、
それはそれは話題になった。
天までも驚いたのか、翌日は砂漠に何十年ぶりの大雨が降った。外気は50度!
このブログのなかで何度か書いているので、さらに振り返ってみた。
なつかしいな〜〜〜!
http://keico.exblog.jp/10694394/
2010年5月26日 水曜日 曇り後雨
中東への出張☆回想のわが巴里の街 1980~1990
〜〜〜〜
若い頑丈な!女性を採用して、アブタビメリディアンに送ったのはその後まもなくだった。
他の航空会社やホテルチェーンも続いて女性駐在員を派遣しはじめたのはいうまでもなかった。
女性が世界にはばたいて仕事をしだした四十年も前のことだった。
その後まもなく雇用における男女均等法が出来たのだ。
しかし私の体と情熱は次第に萎み始めていた。
高山先生と体調を相談しながらぎりぎりまで仕事をつづけた。
60カ国にまで成長していたメリディアンチェーンの各ホテルへも足を運んだ。
前任者の男性の原さんでさえ、二年という約束で引き受けたこのハードなポジションを
私は六年間続けてしまった。
ある年の2月3日のプランダクションコメルシアル会議(年度始めのエールフランス本社支社、
子会社を含む戦略会議で、フランスの本社からも何人もおえらさんが出席していた
年に一度の会議でであった)で、
私は突然の辞表をだして3月31日で仕事を辞めた。
その二日後に、人生二度目の大きな割腹手術を受けていた。
http://keico.exblog.jp/5485974
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu
2007.04.26
http://keico.exblog.jp/5626037
2007.05.22火曜日
想い飛ぶ リラの花咲く 巴里のころMemoires du Voyage-Paris
http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇り
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々
http://keico.exblog.jp/10694394/
2010年5月26日 水曜日 曇り後雨
中東への出張☆回想のわが巴里の街 1980~1990
http://keico.exblog.jp/14105309
2011年12月4日 日曜日
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発
http://keico.exblog.jp/14105427
2011年12月5日 月曜日 その二 巴里着
☆回想のわが巴里の街1965~1973 パリとの始まり
http://keico.exblog.jp/14150458
2011年12月10日 土曜日 凱旋門
☆回想のわが巴里の街1965~1973 凱旋門に励まされての日々
http://keico.exblog.jp/14175732
2011年12月13日 火曜日
☆回想のわが巴里の街1980~1990 〜メリディアンチェーン
http://keico.exblog.jp/14195254
2011年12月20日 火曜日 雨
☆回想のわが巴里の街 ~ 我が人生を振り返って
https://keico.exblog.jp/20339858/
四半世紀前の仕事ライフと十五年前の巴里を
2014年10月31日 金曜日
〜〜〜〜
さて砂漠への旅のモロッコはなんといったかな?
空港から街を越えて新しい未来のほうに走ると
まもなく砂漠が広がり広い砂漠をセダンの車で自分で運転して行ったことを覚えている。
アトラス山脈を越えて行こうと言う計画だったが途中連れ合いが病気をして挫折した。
シリアとヨルダンは?これはASAHIの柳澤さんと一緒だった
砂漠といえば、最後はオアシス……ゴビ砂漠(月牙泉)と
タクラマカン砂漠 ( 新疆ウイグル自治区)は
志村ふくみさん洋子さんと吹田夫人といっしょだった。
敦煌では館長さんとお食事をご一緒させていただいたりと
スバらしい旅となったのでした。
>>>>明日に続く
((右から二番目の黄色いカーディガンが百合子夫人、その左は志村ふくみ先生)
(敦煌莫高窟美術館の館長さんと)
>>>>>
詳しくは明日にしましょう。
https://keico.exblog.jp/240909420/
志村ふくみ先生と西安敦煌の旅の思い出です
2021年4月2日 金曜日 晴れ その二
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若者の活躍に酔って、40年前の旅の思い出に浸って、、、
http://keico.exblog.jp/8751756/
2009-08-02T23:59:00+09:00
2014-12-31T23:38:41+09:00
2009-08-03T23:57:20+09:00
pretty-bacchus
♤JourneyAbroad海外1960
石川遼君の涙はよかったですね!
若いっていい!
宮里藍チャンは残念でした。でも三位だって素晴らしい〜〜〜!
何人もの日本女性がリンクスの芝を叩いているって、なんだか夢みたいです、、、
なんとなく、ゴルフ鑑賞? にあけくれた週末でした。
でも、21世紀の日本の若者は凄いです!
自信を持って、ものおじもなく、明るく、若者らしく、、、、そして言葉も不自由なく、
キャディーさんと、にこにこ話ながら歩いている。
新しい時代なのですね、、、
ほんとは今日は、MさんSさんからおくっていただいた本を読破したかったのですが、
これはテレビをBGMにして読むのはは失礼だな、、、と、結局断念。
(戦後すぐから、日本へヨーロッパの美しいものを沢山紹介なさった母と同年配の大先輩の方の人生を
あだやあおろろかには拝読することはできませんから、、、、)
写真の整理をしながら雑誌を整理しながら、、、、とゆっくりしました。
オールドジャンボの終焉のブログで、Hさんから珍しい写真を送っていただきました。
(自分でも忘れかけていた写真を持っていてくださる方がいるって、なって幸せなことでしょう!
ありがとう〜〜〜〜〜!)
どうやら40年も前のローマ、コロセウムでの“pretty-bacchus in Rome”のようです。
その後何度もローマに行っていますが、この時の思いでが一番鮮明です、、、
こんなに私も若かった! 当時としては飛んでいたかもしれませんね〜〜
その頃に、今の私の年代の方や、さらに何重も年上のSさんや、Mさんは、
どんな風にごらんになっていたのでしょうね、、、、
そういえば、ローマが舞台の「天使と悪魔」ダン・ブラウン作が映画化されたのをまだ見ていません。
「ダ・ヴィンチコード」の前に書かれた作品で、バチカンを舞台に繰り広げられるおもしろい
ストーリーなのですが、
バチカンの怒りを買ってローマ市内の教会での撮影を禁止されたという、いわくつきだから、早くみたいな、、、、、
(40年前なのに、なんとモダンなコットンのアンサンブルを着ているのでしょう!
デザイナーだった叔母が創ってくれたのでしょう。
そしてこの波打つ帽子、もうこんな帽子があったのでしょうかね〜〜?
そしてなによりも、なんと細かったことでしょう〜〜〜〜!
ハンドバックと一緒に下げているのはカメラ? 機種はなんなのでしょう? ミノルタかオリンパスペン?)
この頃撮った写真はおそらくネガフィルムでしょう。ロッカーの奥から出してそろそろ整理をしておかないと、、、
]]>
ATHENS 2004
http://keico.exblog.jp/862567/
2004-08-14T13:32:00+09:00
2014-12-31T23:42:42+09:00
2004-08-14T13:32:55+09:00
pretty-bacchus
♤JourneyAbroad海外1960
English Here
東京オリンピックのときはまだ学生だった。先日ある方とも会話でそう話したら、「私はまだ生まれていませんでした、と言われて、ガウ〜〜〜ン。
そうなのですね〜〜〜40才以下の人は生まれていませんよね〜〜。
オリンピックの発祥地ギリシャへいってみたい、という思いはパリへのあこがれと共に大きくなっていました。
最初の海外の旅は、パスポートが自由のとれるようになったばかり
(昔は特別のケースしか許可にならなかったのです!)1965年。
パリのあと訪れたのもちろんはギリシャのアテネ。アクロポリスの荘厳さにうたれ、
スニオン岬の夕陽に酔いしれと、、、、歴史の旅を満喫した青春の思い出です。
あれから40年が経ったのか! う〜〜〜〜! 歳をとるはずである。
つづく
]]>
パリへの駐在の記念日は アポロ11号月に着く
http://keico.exblog.jp/715454/
2004-07-22T00:03:00+09:00
2019-07-22T03:53:33+09:00
2004-07-22T00:03:21+09:00
pretty-bacchus
♪JourneyAbroad海外1960
人類初の月面到着。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。
この時私は三度目のパリ行きの機内にいた。
出発の羽田空港(当時はまた成田がなかったのです)は、
テレヴィの中継を見る人でごった返していた。
制服は当時のパリファッション界の寵児のクリスチャンディオールの特別製。一人一人がヴァンドーム広場近くのアトリエで仮縫いをしてくれたのですから、なんという贅沢なユニフォームだったことでしょう。空港では帽子もかぶらなければなりませんでしたが、シャンゼリゼのオフィスでは脇においていました。
(クリスチャンディオールの制服は、中の白いブラウスの襟前は長方形のリボンで、濃紺の襟ぐりが広いラウンドの襟からそれが見え隠れするのです。袖も洒落ていました。そして胸には小さなエールフランスのマークの入った記章。このユニフォームを着たくて試験を何度も受けた人が多かったそうです)
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