さようならトニーさん、Toni Sailer トニーザイラーさんが亡くなった。
2009年 08月 25日
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朝の一風はもう秋、、、やっと暑さが去り始めた。
その涼しい朝に、オーストリーのフリッツFritzさんから悲しい知らせが入った。
トニー・ザイラー Toni Sailerさんが亡くなった。
73歳だった。
一昨年からガンを患ったが、ここ何ヶ月は元気になって活躍していると、フリッツさんから知らされていた。
一昨前に彼自身が喉頭ガンに冒されて、インスブルック大学病院で治療を受けていた。
「72歳になれば、そのような病気に一度はなるものだ。と
早く是非あいにきてといわれていたのに、行かれないでいたのだ、、、、。
ここ数年だけあっていなかった。
トニーさんが日本にほんの数日だけくるときも、私たちがホンノ一日だけオーストリーにいくときも
必ずあって食事をしていた。
去年ガンであることがわかって回復したときも、
“シゲルケイコ、早くこっちにまたきてね、といっていたのに、、、。
“来年は一度たずねましょうね、、、、と話していたのに。
長いお付き合いだった。
日本スキー界の育ての親だった、西村一良さんのヨーロッパの視察にお供してからの事だったと記憶している。
(西村一良氏、初代SIA会長。2005年(平成17年10月 8日)永眠。享年98歳)
卒業して商社で学んだあと会社を立ち上げて、スポーツ用品の輸入を主にしていた連れ合いが、
オーストリーのアトミックスキーを輸入し始めたのは1970年代だっただから、その頃からのお付き合いになる。
トニーさんはまだ30代後半、もちろん私たちはもっと若かった。
だからとっても可愛がって下さった。
開発&輸入総代理店をしていたので、トニーさんは、その販促にもよく来日していた。
「八ヶ岳ザイラーバレー」のプロデュースでは、トニーさんが現地を何度も視察して、スキーコースを造ったのだ。
彼はアトミック社のコンサルタントをしていた。
オーストリーでも日本でもスキーの神様のように思われていた。
日本向けの板のデザイン、販促、広報などすべてをまとめてディストリビューターのA社のスガワラさんと
現地で創り上げて試走してもらう。そんな時にトニーさんはいつも一緒だったという。
彼の滑降は華麗だった。
現地で一度、日本で一度みたことがあるが、唖然とするほどステキだった。
背が高いし、しまった細い身で、大きく回り込む斜面は動く芸術だった。
滑っている人があのトニーザイラーと知らないでも、人々は途中で止まって、その人の格好に見入っていた。
彼がイタリア・コルティナダンペッツォ冬季五輪でのオリンピックで三冠王と獲ったのが1956年。
滑降、大回転、回転の3種目とも圧倒的な強さを見せて金メダルを獲得し、初の3冠王となったのだ。
お姉さんから借りた臨時のスキーの板をはいていたと話していたことがあった、
引退後はスキー界の発展に貢献したし、母国のオーストリアだけでなく日本のスキー界にも影響を与えていた。
スキーヤーとしてばかりではなく、文化人として多くの民間外交で活躍なさった。
青森県の大鰐村とトニーさんの村の近く、フリッツさんのラムソー村との姉妹都市のお祝いの時は、
大鰐村では村をあげての大変なお祝いとなってトニーさんをお迎えしたものだ。
ザイラーヴァレーや安比高原のスキー場でのプロジェクトでもいつも一緒だった。
コースでは彼の名前が残っている。
映画スタートしても「黒い稲妻」「白銀は招くよ!」などの多くの映画にも出演し、日本にも多くのファンがいた。
噂になったことのある日本の女優さんや、ロミーシュナイダーとのことを聞いたことがあるが、
“ケイコ、あれは噂ですよ、わたしにはステキなオクサン(日本語でかれはこういう)がいるし、
それにケイコのようなステキな日本女性のフレンドがいますから、、、”といっていた。
そして、噂になったその日本の女優さんのことはあまり尊敬していなかったと思う言葉も聞いたことがあった。
日本女性として残念でムキになって抗議したこともあった。
ゴルフがとても上手で、日本にくるときには、誰の招待をうけていいか、いつも少し悩んでいた。
オーストリア・キッツビューエルのトニーさんのお家には世界中からゴルフの招待状が来ていて
お父様が整理をしていたというし、いつも友人があつまっていた。
一時はオーストリーの大統領にと請われたこともあったと聞いたことがある。
(ご本人は、そんなつもりなないと言ってらしたが、、、)
85年にはIOCから五輪オーダー(功労章)が贈られていた。
十数年前に、オーストリー大使館のご依頼で、主人の代行で Toni さんを、
日本のスキー発祥の地の高田まで連れて行って、記念式典に一緒に参列したことがある。
高田村に記念の銅像が建てられてその除幕式だった。
新潟県高田の陸軍歩兵連隊で、オーストリアのレルヒ少佐が初めてスキー指導したことによるのだそうだ。
地元の子供達を集めてのトニーさんのスキー教室が行われて、彼が優雅な滑りを披露した。
その美しいシュプールに全員唖然!
(その時の写真はどこにいったのだろう、、)
サインを求める子供達やファンの何百人もの列がきれるまで、彼は一人ひとりに話をしながら色紙にサインを続けた。
後で手がいたくなったといっていたのに、、、
トニーさんはほんとにナイスなハートの男性だった。
その時彼が使ったスキーは、日本スキー発祥記念資料館内の記念館に納められた。
トニーザイラーさんがサインをして(私の指紋もべたべたついているだろう!)
(わたしのマック内を検索したら1995年の事だった。デジタルの検索ってすごい!)
山形のあの資料館には、彼のサインとわたしのキスマークが入ったワンペアーのスキーがまだあるのだろうか、、、。
彼は、ニューオータニ内の岡半さんや、浅草の「いり金」さんのお肉が大好きだった。
最初のころは遠慮をしてワインもあまり飲まなかったのに、親しくなってからは、
好きなシャンパンから始まって白、赤、アルマニャックと良く一緒に飲んだものだ。
ドンペリニヨンのロゼを一ケース車のトランクに乗せて国境を越えた話もしていた、
(その頃はきっと国を超えるときの本数制限があったのですね、、)
還暦のお祝いの時は、彼の家に世界中から友人が集まったという。
招待をいただいたが、連れ合いだけが出席した。残念だ一緒にいけばよかった、、、、
いろいろの思い出はつきない、、、、ホントニ良い友だった。
トニーさん!、あなたのあの笑顔にもう会えないのですね、、、、
あなたのあのステキな声はもう聞けないのですね、、、トニーさん、、、、
トニーさん、あなたはいつも私たちの心のなかにいます。
告別式に飛んでいきたいが、それも出来ない。
思い出の写真を見ながらご冥福をお祈りしよう。
(マックの中に入っていたデジカメ事始めの頃のフォルダーにいくつも残っていた)
“親しい人が少しずついなくなってしまうね、、、、
連れ合いがぼう然としている。
夏の夜は長くなりそうだ。
トニーさんが好きだったサンテミリオンの赤ワインと、フランシスダローズでアデューの杯をあげようか、、、
~~~
デジカメ記録に残っている彼の写真を少しだけ、、、、
(コンバンハ、、、と岡半さんの格子戸をくぐるトニーザイラーさん。
彼は左手の持っている紙包みはわたしへのおみやげだったのです!)
(このとき初めて息子さんを連れて来日した)]
(何を思うかトニーさん、、、、この三枚の写真は、ブログでは初公開の写真です)
(食事を終わって、ニューオータニのロビーのお花の前で、、、、、、、)
〜〜〜〜〜〜〜〜
今年の1月にブログで書いたばかりだった。
来年には訪ねたいと思っていたのに、間に合わなかった。
http://keico.exblog.jp/7811600/
2009年1月12日 月曜日 <<<< click please.
スキー記念日にトニーザイラーさんとの思い出に浸って
このブログにアップした写真
(2000年の1月にはご子息と一緒に来日なさった。200MのフジFinePix/DSCで)
(夕食のあと、ロビーのお花の前ではいチーズ! 皆さんワインで少し酔ってましたね〜〜。
〜〜〜〜
youtubeでいくつかを見つけた。
http://www.youtube.com/watch?v=j9iM-kggL6k&feature=related
トニーさん
トニーさんの声が聞こえる、、、トニーさん、、、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜追伸:
関係者と連絡がつづいた。
オーストリーのフリッツさんが、弔電とお花の手配をしてくださることになった。
from Shgeru & Keiko, Masa & Yanbe in Japanを入れてもらうようお願いした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜 追伸2:
猪谷千春・IOC副会長が語っているそうです。
「無敵のスキーヤーだった。本当の天才。教養もあるし、紳士的な人で、長くお付き合いをさせてもらった。
数年前からガンを患っていると聞いていた。寂しくなる」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜 追伸3:
なんだかとってむなしい、、、
まだNHKとかアサヒコムのニュースになるまえに、ウィキペディアでは
<カテゴリ: オーストリアのアルペンスキー選手 | オーストリアのオリンピック金メダリスト | オーストリアの俳優
| 1935年生 | 2009年没>
となっていた。
親しく付き合われた方がこうしていなくなってしまうのは、本当に淋しい思いをされるのでしょうね。
とにかくpretty-bacchusさんのテスト結果に問題がなくて良かったです。
ますますご壮健でありますように。
心より 哀悼の意を表します。
岡半にいらしていただいたこと 私にとりまして とてもよい思い出です。
そして、岡半の暖簾をくぐってお入りになる写真を拝見し 胸がいっぱいになりました。とても素晴らしい写真です。
トニーさんの美しい顔と顔からにじみ出るお人柄のよさ。なんとタイミングの良いショットなのでしょうか。
ブログを拝見し 片桐さんの体調がすぐれなかったことを知りました。早く良くなりますよう お祈りいたします。
また、お礼が遅くなりましたが、先週の土曜日に お母様の八尾様はじめ 表千家の皆様が会食をされました。2年連続で同じ店を使われることは今までなかったとのことで、大変ありがたく これも 敬子さんのお口添えのおかげと 感謝いたしております。
これからも 厳しい暑さが続きます。くれぐれもご自愛ください。
岡半 柴田
何おするにも全力でそしてまじめに取り組んでくれました。沢山のサインも
いしょうけんめいまじめにしてくれました。特に子供達にはどんなときにもいつしょうけんめいまじめにせつしてくうれました。スキーがどん なに楽しいか、ほんとうに言葉にできないすばらしい人でした。しげ、げんきで、がんばれよ、と にこにこした トニーさん に またあいたいですね。
「トニー・ザイラーさん逝去」のニュースを聴いて、直ぐ 片桐ご夫妻を思い浮かべました・・・
出先におりましたから、帰宅次第、お悔やみのメールを〜と思ってました。
27日の今日になってblog を観ました。
今どきの年齢を思うと、“まだ若い〜”ですねぇ〜
惜しまれながら、逝ってしまう人・・・もあれば、
うだうだと権力や肩書きにしがみつく人・・・
『惜しまれる人たち』にもっともっと長生きして、“生きる喜び” “歳経るよさ!”を態度で伝えて欲しいのに〜〜
長い間生きていますと、主人と両方の交友関係はどんどん増えていきますが、海外の方にはあまり会えなくなって寂しく思っていた矢先ですので、とても悲しいです。
トニーは本当にイイオトコだったのです。
彼はとても柴田さんのお店とホスピタリティーが好きでした。
もう一度一緒に行きたかったですね、、、
このショットは、デジカメ事始めのころでしたが、ホントニ彼のステキさが写し出されていますね、、、何度見ても胸がつまります。
母がお世話になってアリガトウございます。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
なんだかまた泣けてきています、、、“しげ、げんきで、がんばれよ”っていつもはげましてくれていましたものね、、、
偉大な人がまた一人いなくなってしまいました、
天国でドクタークックとお話しをしているでしょうか。
湘南のFさん、お心暖まるお言葉をありがとうございました。
有名人というのではなく、一人の人間としてもとっても素晴らしい人でした。国を超えても交友関係は沢山ありますが、その中でもとっても心が通じる方でした。
病をえたとわかり、来年には会いに行きたいと思っていたのです。
昔のように、おもいたったらすぐに飛んでいける状態でないことを切なく思います。
こちらの報道でも、オーストリアのスーパースターの死という扱いでした。
日本との交流での御活躍はもちろんの事、オーストリアとしては、国家主権を連合国軍から回復した直後の1956年のスキー大会での優勝が、オーストリアの名を世界に再び復権させた功労者として非常に大きいとのこと。その頃の事情は今回の新聞記事で初めて知りました。
御冥福をお祈りいたします。
sepp
<国家主権を連合国軍から回復した直後> あなた様はもちろん、私たちも知らない時代のことですが、国家の奉仕することができたのは、トニーさんも満足のことでしょうね、、、










