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Edoardo Valentini 初七日に 交わせし手紙 手にとりて
 2006.,5,05 こどもの日、母三保子の誕生日、そしてヴァレンティーニさんの初七日

  エドアルド ヴァレンティーニさんの初七日だ。
 日本の端午の節句のお菓子を写真に飾ってお話しした。
  東洋にもあこがrがあったヴァレンティーニさんとは、安土桃山の時代とルネッサンスの頃の同じ時代の
 イタリアと日本の歴史は暮らしのことや、日本の庭と西洋の庭のちがいや、四季の変化などなど、
 今考えると比較文化論を話していたのかもしれない。
 葡萄酒を造るときはアリストテレスを読みながらといっていたが、私はアリストテレスはかじっただけで
 一緒にお話しをすることはできなかった。
 私の父が一緒だったらと思ったものだ。

   母にヴァレンティーニさんがなくなったの、と電話をしたら
 「お父さんのところに逝ったのね〜〜〜。今頃いっしょに、敬子の父です、なんて言いながら
 杯をかたむけているでしょうね。と母。
 戦後まもなく何もない頃に、酒代に母の着物が一枚二枚と減っていくのを知ってかあ知らずか、、、
 家にはいつも沢山の文化と酒と食にあこがれる人々が集まっていた。

  西洋に憧れながら、何度誘っても海外の旅へ腰を上げなかった父。
 「三保子を連れて行っておやり、とその旅、母と一緒に旅立ち、フランス、イタリア、スイスと
 いくつもの国を案内してて、二人で父に絵はがきを書いたものだ。

  ヴァレンティーニさんを最初にお訪ねしたのは1996年の春だから、お付きあいは10年になる。
 父が亡くなってまもなくの頃だった。父に似ていたのかもしれない。
 どこかひょう然としたインテリジェンスの男の魅力が私を魅了したのかもしれない。
 ほんの数回の邂逅であったが、文通は続いていろいろとお話ししていた。
 彼はイタリア語で書き、私は英語で書く。
 イタリア語を日本語に、英語をイタリア語にしてくれたのはミラノに住む春子さん。
 ヴァレンティーニさんはフローレンスで法律を学んだが弁護士になるのをやめて父親の広大な農地で
 仕事をすることを選んだのだ。もちろん英語もフランス語も解していた

  交換した手紙の束は事務所で大切に保管しているが、一通だけはいつもハンドバックに忍ばせていた。
 その私の宝物はいつも私を励まし希望を消さないおまじないだったのかもしれない。
 いつか必ずヴァレンティーニさんと一緒に船旅をして、日本にお連れしよう、、、、春子さんも一緒に、と。

  何度も読み返して涙があふれる、、、、。
 創世記ではじまるこの手紙を、彼の家族の写真を撮って、はじめて友人にお目にかけようと思った。
 本邦初公開だ。ヴァレンティーニさんとの友情は、あまり人には話さないできた。
 なぜってあまりにもジェラシーが多いからだ。
 でもこうして、あちら側の世界にアップする気になったのは、どこかに残しておきたいと思ったからだ。
 そして友人からのメールで、
 「彼と彼の家族の一番よい写真を撮ったのはたった一人、遠く離れても心が通じていた
 日本女性の敬子だったということは凄いことだ」
 といわれて感激したから、、、、。
 そして、おそらく国を超えて心の交流がこんなふうに出来ることは、これからの私にはもうないだろうから、、

  父や祖母、叔母、連れ合いの父や祖母の写真の棚にもちまきを飾って、こどもの日を過ごした。

  今夜はチェラソーロで友と一緒に冥福を祈る予定、、、、
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(1998年のお手紙をミラノの駐在員の春子さんが訳してくれたのは、、、、)


by pretty-bacchus | 2006-05-05 18:18 | ♥EdoardoValentiniヴァレ | Trackback | Comments(0)
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