☆回想のわが巴里の街1965~1973  パリとの始まり
2011年12月5日 月曜日 その二 巴里着
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http://keico.exblog.jp/14105468/
前ページからの続き、、、
2011年12月5日 月曜日 パリへ出発

 予定時間より早く着いたJL041便。
しかし、ナショナルキャリアーでない機は時としてそういうことになるのだが、駐機場まで暗い雨の空港の敷地を進み、
端っこの方に到着したのはその十五分後、そして一階に下りてリボンで区切られた卍のような柵にそって進むこと四十五分にして
やっとパスポートコントロールに着くことができた。
バゲッジも一番奥の三十番、また戻って四十番の先が出口というわけで、もうくったくた。
国際線なのに、荷物の検査も無く押し出されるようにタクシー乗り場についたのは、機が着陸してから一時間十分もたっていた。

 真っ暗な早朝なのに、タクシーのりばは手配のおじちゃんがいて、ワゴンタクシーをくださり、
一路雨のオートルートをひた走り始めたのだが、すぐに渋滞がはじまってしまった。
時計を現地時間にあわせて、六時五十分。
運転手さんはとても親切な太っちょのおじさん、ですまなそうに、こんなに朝早いのに事故ですかね、、、とか、
いろいろ話してくださる。
遅々として進まず、、、途中でペリフェッリク(外環状)に入るのをやめてもらって、懐かしのホテルメリディアンパリのある
ポルトマイヨーで降りてもらって、凱旋門をぐるっと回ってシャンゼリゼを下ってもらった。

 凱旋門ってやっぱりすごい存在感だ! タクシーの後ろの席からカシャカシャ、、、、。

a0031363_6522488.jpg  (この凱旋門に励まされて、泣きながら仕事場に向かったのは四十年前!<<<後日書いておきましょう)
(05 December 2011 Paris am8:12 Arc de Triomphe)

(タクシーの席の間から撮った動画はあとでアップできるかな?)




クリスマスイリュミネーションは夜だけのようで、四キロをくだってコンコルド広場へ。
ロンポアンからは両側ずっと<クリスマスの家>が続いている。

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a0031363_22392071.jpg(ようやく少し夜が明けてきたようだ、、、、冬のパリの日の出は遅い、、、)
 (05 December 2011 Paris am8:15 Place de la Concorde>

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 セーヌ川を右手にちらりと見ながら、ここをぐるりとまわって、左折してマドレーヌ寺院につきあたり右折。
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(05 December 2011 Paris am8:17 Place de la Madeleine >

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(05 December 2011 Paris am8:17 Place de la Madeleine >

キャプシーヌ通りの角のカフェドゥラペ、
(真夜中までにぎあっているこのカフェをこんなに朝早く通ったのは初めてだ、、、)

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(05 December 2011 Paris am8:19 Cafe de la Paix >

オペラ座を左に見てブルバールデイタリアンへ。
しばらくして左折してさらに左折でブルバールホースマンへでて、
すぐに左にまがった細い道のホテルに到着。
なんと空港から一時間四十分もかかってしまって、こんなことは長い巴里の経験では初めてのこと。
<想定外>のことでした。

 知り合いのホテルなので、前日は予約をさけてくれたようで、すぐにお部屋に入ることができてほっと一息、、、、。
今回は友人のステュディオと、友人のホテルにお世話になることにしているので、まずはここで一週間の予定。
        (以上タクシーのなかからの早朝の巴里のスナップでした)
〜〜〜〜〜〜

 それにしても冬の巴里は暗く寒い。
巴里に住み始めた最初の年はこの暗い冬がつらかった。
このグレーの空の冬の巴里が好きになったのは数年たってからだった。

 急にあの時代の暗いパリを思い出してしまった。
なにせ、凍った高速道路を運転してオルリー空港まで通わなければならなかったのだから、、、。
グレーの空の冬のパリは3時半ごろには暗くなりはじめる。朝も10時半ごろまではお日様の顔を見られない。
パリの西南のポルト・ド・オルレアンからオートルートを南に20分ほどでオルリー国際空港に着く。
(そのころは未だ成田空港もシャルル・ド・ゴール空港も存在しなかった)

朝一番の高速道路は氷がはり、ヴェルグラ(氷結注意)の標識が続く。
暗い朝に車のダウンライトをつけて(パリはアップは禁止なのだ)、凍りついたオートルートA6を南下して
数十分の道を仕事場のオルリー空港に通ったものだ。
滑りそうになって何度もハンドルをもったまま道の端によって止まり私の方が凍りついた。

 日本から到着するAF273便は午前5時頃の到着だった。
東京からのテsレックスが入ると、私たち駐在員は、特別アテンドのためにフライトが到着前に
空港について
機首までお出迎えをしなければならなかった。
(当時はもちろんメールなどはなく、航空会社ですら、唯一の通信方法が、カタカタカタと印字をしながら入ってくる
テレックスだったのだ)
わずか数人しかいない日本人駐在員であるし、女性は一人だったから、熱がでようが、
ガードレールにぶつかって車がぼこぼこになろうが、まだ暗い道を必死でハンドルをにぎらねばならない。

 日本からの朝のエールフランスの第一便のAF273が着く頃には、空港はるかに真っ赤な朝日が昇り始める、、、
日は昇る、あ〜今日もまた新しい朝がきた。大きく深呼吸して私の朝は始まるのだった。
シャンゼリゼ大通り121番地の二階のティケッティングカウンターに移るまでの二年間は、
今思うとなんと大きな可能性をもった歳月だったろうか、、、

 最初の冬は泣きながらのパリの毎日だった。花のパリであるはずが涙涙のパリであった。
選ばれて駐在員としての憧れのパリでの仕事だったはずなのに、、、、、と、何度も涙した。
でもこのくらいの寒さでは涙は凍らなかったのだ、、、、、、

 友人達の羨望と嫉妬さえかっての単身赴任のパリ、、、
その頃のパリは、萩原朔太郎の時代とは、はるかに違うが、やはりまだまだ遠かったのだ、
渡航の自由化がはじまってはいたが、まだまだパリは遠い都だったから、日本からパリの空港にお着きになるのは
各界で活躍なさっている方々が多く、それはそれは目を見はるような方々が多かった。

岸恵子さんや松本弘子さんや高田美さんはすでにパリに暮らしていて、
その次の時代を作った高田賢三さんや森 英恵さんがパリでの仕事を始める頃だった。
空港の出発VIPサロンではアランドロンやオナシスが静かに出発前のシャンパンを楽しんでいたり、、、
東和映画の川喜多長政、川喜多かしこご夫妻が、日本とパリを往復して映画のお仕事をなさり、
かしこ夫人はいつもお着物でなんとシックだったことか!
彼らがフランスから日本へ紹介する映画を見るのが楽しみになった。

團伊玖磨さんにお目にかかると彼の本を読み音楽を聴く、 外交官の大高さんがスイスに赴任なさると
スイスのことを知りたくなる、
三船敏郎がロケにくると、次の帰国の時にその映画を見る、 、、、、
外交官、芸術家、商社の方々、映画俳優、そしてお忍びの政治家達、、、と、おそらく日本にいたらあまり
お目にかかれなかった方々と、お話しする機会が増えて、そのお仕事関係のことにいろいろ興味をもったものだ。

 西洋の美しいモノを日本に紹介しようと、サンモトヤマの茂登山長市郎さんや、吹田貿易の会長に
お目にかかったのもこの頃だった。
そんな日本からのVIPの到着と出発のお手伝いをするのが当初は私の仕事の一部であった。

 まだ日本の新聞も本屋さんもない時代だから、葉書で関連本を父母に頼んで集めてもらい、
安い船便でパリに着くのが待ち遠しかったものだ。

冬の暗いパリも本を読みながら、教会の鐘を聞きながら、セーヌ河畔を散歩しながら、
そして時には美術館や音楽会にいったりと、、、

 ホテルずまいの後、冬が来る前にようやくアンバリッドの近くのアパルトマンを借りることができたのが、
17 Rue Desnouette Paris Paris 15 arrondisement
であった。

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 グーグルアースで、パリで住んだ三つのアパートメントにピンをうってみた。
 そのどれもからエッフェル塔がみえていたのが、よくわかる。

 あれはもう40年も前になるのだ、、、、、、
フランス語もおぼつかない私が突然の巴里駐在員に任命されて、
あれよあれよというまに巴里で仕事をすることになったのは、、、。

 人類初の月面到着から36年。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。
月に兎がいると信じていた子供のころの思いはかなく、月から送られてくる映像は、ごつごつとした石ばかり、、、。

 この日私は午後の機で東京を発ち、四度目のパリ行きの旅路についた。 
出発の羽田空港(当時はまた成田がなかったのです)は、アポロのテレヴィの中継を見る人でごった返していた。
万歳!ばんさい! その万歳三唱は、アポロの月到着を祝うのではなく、私がパリへ発つのを見送りにきてくれ
た十数人の友人達と両親兄弟が全員手をあげてお祝いをしてくれているのであった。
海外への旅が自由になってまだ数年しか経っていたかった当時は、外国に旅発つというのは珍しく大変なことであったのだ。
母は涙をかくせずに、でも、にこにこと手をふっていた。

月に人類初到着のニュースで送られた私は、その興奮が機内に残るまま巴里に到着した。
パリでも空港のテレヴィはそのニュースでもちきりだった。

 そしてこの日から、私のパリ駐在員3年8ヶ月が始まった。それは涙と感動の二十代の若き日の経験であった。
慣れない仕事に疲れ果て、ホテルに帰ってドアをしめると崩れるように座り込み
崩れてしまっていた、、、、

 英語科だったから、フランス語は第二語学で不十分、その後の日本経済台頭のまだまだ前だったから、
“日の出ずる国>からの女性駐在員は、それはそれは大変だった。
最初の数ヶ月は、テレビもない冷たいホテルの部屋で、一人涙に暮れたことが何度あったことか、、、

あのころ、、、、、
あの頃も今もいつも、わたしは必死で戦っていた、人生というまか不思議な魔物と、、、、。
あの苦しい体験と、それを乗り越えた自分自身の自信と強い思いがなかったら、その後の私は、
また別の路を歩んでいたことだろう、、、

そして、これでもかこれでもかと襲ってくる人生の苦境や、まさかの坂に負けそうになりながらも、
生きることを楽しむことは出来ていないだろう、、、

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2005.07.20のブログ
満月の 月の兎は 今はなく

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記念日は アポロ11号 月に着く
2011年12月12日 月曜日
記念日は アポロ11号 月に着く
2004.07.22
 人類初の月面到着。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。この時私は三度目のパリ行きの機内にいた。 

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その頃の若い私はクリックしてみて下さい
凱旋門に励まされての遠いパリの日々
2009年11月1日 日曜日 
by pretty-bacchus | 2011-12-05 10:10 | ♪Journey海外2011PARパリ | Trackback | Comments(4)
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Commented at 2011-12-06 07:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by かのこ at 2011-12-06 12:02 x
わぁ~~~♪パリだぁ・・・ステキですね~目がハートになっちゃいます
私たちも最近よく、『フランスに行きたいねぇ、いつ行けるかねぇ』っていう話になります
お互いの仕事の都合やら、お金の都合やら(^^; 行きたい場所などなど話しています
写真をたくさん見させていただいて、ますます加速しちゃいそうです!

Commented by pretty-bacchus at 2011-12-06 23:48
鍵コメントの先生、そんななお若い頃からご活躍でらしたのですね!
ドナルド・キーンさんにはお目にかかったことがあります。
このたび日本に帰化なさったのですね、、、。。

Commented by pretty-bacchus at 2011-12-06 23:48
かのこさん、ぜひお二人でいらしてくださいね、、、巴里にもピゼイにも!

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