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四半世紀前の仕事ライフと十五年前の巴里を
2014年10月31日 金曜日

 神無月最後の日となってしまった。
先週にSTさんからメールをいただいて、ワインとお酒の輸出入についてアドヴァイスをして欲しいとの
ことだったが、ようやく出かけることができた。
細かい事務的なことや税務関係のことは私はまったく弱いので、
ながいこと貿易経験のある連れ合いと一緒に出かけた。

 青山一丁目の古い?新青山ビルの向こう側に十年ほど前に建った高層ビルの十二階。
ガードマン二人が立つ玄関のタッチパネルで、訪ねる部屋番号を押して中から確認されて広いロビーに入る。
ここまでは六本木ヒルズやお台場の友人友人の高層マンションと一緒。
ロビー右端にある受付嬢の脇を通ってエレヴェーターに乗った。あれ〜〜十二階が無い?
一度外に出て奥の方のもう一基に乗った12あり。押したがビクともしない。
え〜〜?
外に出てSTさんに電話をしたら、なんと受付嬢の脇にあるタッチパネルをもう一度押さないと
エレヴェーターが作動しないのだという。
このセキュリティ対策が売りでこの高層マンションが外国企業のVIPが多いのだという。

 これから貿易の仕事をしたいというT氏は三十七歳。
自己紹介のあと、彼の今までのお仕事と今後どんなことをしたいかをうかがった。
ご苦労をなさったあと、最近の十年ほどはお知り合いの会社で大きな実績をあげて、
子会社もつくり責任を果たせたので独立をしたいという。

なかなかの青年なのだが、なにかどこか違う、、、これがジェネレーションギャップというのだろうか? 
いやそれだけではない、、、。
フランスへいってまず美味しいワインを飲みたい、そして日本酒をフランスへ輸出したいということは
わかったが、、、。
STさんのお許しを得て、思ったことを話し始めたが、私はなんということか、
次々に立て板に水の如しでお説教じみたことを話し続けてしまったのだ。
“まず貴方は謙虚でない、、、”から始めて、、、、、、
最後は“今のままではまずフランスに行ってもすぐには無理ですね” とピシャリ!
嗚呼〜〜なんとしたことか、、、!息子がいたらこんなふうにいつもお説教をしていたのかもしれないなと。
でもきっとこの青年がどこか見どころがあると思ったのかもしれないのだが、、、わかってもらえないだろう、、、。

 一時間半ほどでお時間がないらしく先に帰られたので、STさんと三人でしばらく歓談。
STさんは五十代後半で、今の若い三十代の方々の思考と行動の善し悪しをいろいろ話してくださった。
彼等には彼等のルールがあるが、人間としての最低のルールは守って欲しいと思っているということだった。
わたし達が歳をとったのかもしれないが、なんだかどっと疲れてしまっておいとました。

 ポツリポツリと雨が降り始めて、隣の新青山ビルの東館に入った。
エールフランス&メリディアン時代に十五階のオフィスで十数年仕事をした思い出が甦った。
“真夜中によく迎えに来ましたね、、、”と連れ合い。
最後の六年間のホテルメリディアンチェーンの時代には何十カ国も回り、日本にいるときは、
真夜中までレポートを書き(まだPCで打てる時代ではなくタイプライターとテレックスの時代だった)。
ビルの警備のオジサンがいつもいつも心配をして一時間毎に見回りをしてくれたものだった。

 なつかしさのあまり一階の広場までいったが、植田いつ子さんのお店もケイフローリストも
どこもかも別のお店になっていた。
地下におりたら、昔よく行ったお蕎麦屋さんの<くろ麦>があったので入ってみた。
メニューは以前通りで、板わさとさつま揚げにお酒は剣菱のぬる燗、おそばは名物の三色蕎麦。
おもわず昔の事、、、といってももう四半世紀もたっていたのだが、、、をいろいろ思い出して
話し込んでしまった。

 戦後の日本で教育を受け、昭和の高度成長期に社会に出て、それぞれの道でそれなりの仕事で精進し、
バブルの波に乗ったわたし達は、平成の初めからの日本沈没にどっぷりと巻き込まれて
大きな人生を終えたような気がする。
そのほんの一部をぼちぼちとブログに書き始めているが、辛かった経験だけでは悲しいし、
自慢話になってしまってもいけないし、あくまでも謙虚に人間的にと思っているのだが、
年上の方とかお人によっては、そうは思わないのかもしれない、、、わたし達がさきほどの青年を
そう思ったように、、、。
そんな時はぐさりとお小言を下さる方はいらっしゃるだろうか、、、。

 雨の上がった青山通りを高齢者二人はとぼとぼと歩くのでした、、、。
カメラを持っていたのに一枚もシャッターを押さなかった十月最後の一日だったのでした。

 〜〜〜〜〜
(ブログ内で少し思い出を、、、、、)

 最初の旅はアブダビメリディアンのオープニングの準備の仕事。
一応、黒のパンツスーツと黒のアタッシュと仕事モードでいったのに、空港に迎えもあったのに、
税関で小一時間もまたされることになったのだった。
すでにあったヒルトンホテルやインターコン、シェラトンなどを視察したり、
当時中東で日本料理屋さんで成功していた方々にもお話しを聞いて、私は数日の間に、
マーケッティングをすませた。
帰りの機のなかで数十枚のレポートを書いて、帰国後すぐにパリの本社に送付。
その結果というか、幸か不幸か次のプロジェクトの為に、また私はクウェイトやアラブ首長国連邦、
シャルジャなどにも行くことになったのだ、、、、、、、、。

アブダビメリディアンのオープニングでは、商社や現地の会社の方をお迎えしての
レセプションもいくつかこなした。
当時の中山大使、JALの支店長の有賀さん、商社の知人などなど素敵な男性方に助けられて、
役目をこなすことができたのかもしれない。
翌日の現地の新聞にも大きく写真入りで報道された。

THE GULF NEWS 、1982年3月13日 土曜日のアブダビの新聞。
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 (王族、現地政財界、日本大使館商社関係等の何百人もの出席のこのレセプションでは、
わたしはなんと英語と日本語で長い挨拶をしたのだった。今考えると怖ろしいことだ!)


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(時は1980年代初め、普通でもあまり日本人がいかなかった中近東の仕事に、うら若き!細い
チャーミングな日本女性が、たった一人で空港におりたったのだから、それはそれは話題になった)

(天までも驚いたのか、翌日は砂漠に何十年ぶりの大雨が降った。外気は50度!
(右は外務省からの中山大使と左は日本航空の有賀支店長。私はこのレセプションの為に、
紺地に濃い渋朱色の切り替えの中に更紗模様を描いた着物をデザインして創った。
それにしてもなんと細かったか〜〜〜目をつぶってしまっていて残念、、、)
(この着物は後に巴里に住む友人のお嬢様にさし上げてた)


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2010年5月26日 水曜日 曇り後雨
中東への出張☆回想のわが巴里の街 1980~1990

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜詳しくは、これをクリックしてみてください。
http://keico.exblog.jp/5485974
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu 2007.04.26

http://keico.exblog.jp/5626037
2007.05.22火曜日想い飛ぶ  リラの花咲く 巴里のころMemoires du Voyage-Paris

http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇り
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々

http://keico.exblog.jp/14105309
2011年12月4日 日曜日
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

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2011年12月5日 月曜日 その二 巴里着
☆回想のわが巴里の街1965~1973  パリとの始まり

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2011年12月10日 土曜日 凱旋門
☆回想のわが巴里の街1965~1973 凱旋門に励まされての日々

http://keico.exblog.jp/14175732
2011年12月13日 火曜日
☆回想のわが巴里の街1980~1990 〜メリディアンチェーン

http://keico.exblog.jp/14195254
2011年12月20日 火曜日 雨 
☆回想のわが巴里の街 ~ 我が人生を振り返って
 
~~~~~~~
★OldPhoto銀塩写真のデータ化
☆回想のわが巴里の街1990~2000

まだ未公開の、私の前世紀最後の巴里。2000年4月14日のパリ、リュクサンブール庭園の数コマを
(14 April 2000, Paris, Jardin du Luxembourg)
(ラ・ヴィレット公園、テュイルリー庭園、ビュット・ショーモン公園などと並ぶ最大級の公園で、
パリっ子の憩いの場の一つ)

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(散歩する日と、思う人、考える人、そして昼寝をする人、、、)

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(ジョルジュサンドの像の前で遊ぶ鳩くん)


 リュクサンブール公園にはフランスで最も古い養蜂学校があるんですって。
パリのアパルトマンを引き上げて数ヶ月後の春のパリ。この頃は、最晩年に余裕があって
健康に問題がなかったら、もう一度パリに住みたいと思っていたのだ。

http://keico.exblog.jp/9220441/
2009年11月8日 日曜日 晴れ
パリの蜂蜜、ボルドーの蜂蜜、「ばんけい峠のワイナリー蜂蜜計画」

http://keico.exblog.jp/5626037/
2007.05.22火曜日 晴れ
想い飛ぶリラの花咲く巴里のころMemoires du Voyage-Paris

http://keico.exblog.jp/14149612/
2011年12月9日 金曜日
☆回想のわが巴里の街1965~1973 ー世界遺産

http://keico.exblog.jp/19956599/2014年6月30日 月曜日
1996年パリと1999年12月の前世紀のアパルトマン




by pretty-bacchus | 2014-10-31 23:59 | ♪JourneyAbroad海外旅の思い | Trackback | Comments(2)

☆回想のわが巴里の街 ~ 我が人生を振り返って
2011年12月20日 火曜日 雨 
我が人生を振り返ってa0031363_21252852.gif

☆回想のわが巴里の街1965~1973
♥回想のわが巴里の街1973~1980
♥回想のわが巴里の街1980~1990
☆回想のわが巴里の街1990~2000

 最後の日の夜明けを迎えている。
荷物の整理が途中のまま、荷造りをして、あと数時間でも横になりたいのに、目がさえてMacに向かっている冬の巴里。

思えば、八十年代後半からの最晩の二十世紀後半の十数年が、私にとっては最後の充実した第三の人生だったに違いない。
第一が生まれたときから学校を卒業するまでの二十二年、
第二は、そのあとのエールフランス&メリディアンチェーンでの二十三年、
そしてそれからの十数年の五十代最終までがわたしの第三の人生。
それぞれに充実した日々であったが、この第三が一番自由に羽ばたいていたように思われる。

第一の時代のキーワードはやはり、自然との交わり、勉学、教育だろうか、、、。
第二の時代は、新しい事への挑戦、そして仕事、海外、だろうか、、、、。
そして第三は、それらをすべて背負っての新しい世界への飛躍かな、、、、。

 外国人との交流を思い出せば、
幼稚園から中学まで、日曜学校の神父様と父や叔父の知り合いの外国人、
十代後半から二十代前半の大学時代は神父様と先生方、
卒業後すぐにエールフランス入社だから、会社のフランス人上司
二十代後半から三十代はパリの駐在員としてドップリと会社のフランス人たち、街の人たち、
そしてジャクリーヌとその家族、美容師のF、近くのレストランのオーナー達、家主くらいかな、、、。

 三十代後半から四十代前半は、メリディアンチェーン日本代表として
エールフランス本社のおえらさんや、メリディアンチェーンの社長&スタッフ、
そしてホテルがあった六十カ国のGMたち、と、すでにかなりの人たちとお目にかかっていたが、、、、
そのあと仕事に突然きっぱりと終止符をうった後は、<サラリーマン生活>からの呪縛がとけて、
今までとは住む世界の違う、職業の異なったフランス人やヨーロッパ各地の人たちとの交流がふかまっていった。

 東京からパリへ、一泊二日でとんぼ返りで、翌日は香港へ、また帰国して二ユーヨークへ、
中東へとかのメリディアンチェーンの365日24時間休み無しの生活で体を壊したわたしは、
やめて二日後に入院して大きな手術をうけたのだった。
回復してからのわたしは心身共にとっても自由感を味わっていた。

 身内の会社で、しぜんに洋酒部の仕事にかかわっていったから、海外への旅では、
今までのホテル経営のレストランとパリの星レストランだけではなく、
地方のミシュランの☆のレストランにもどんどん訪れ始めた。
自然にレストランのシェフ、ソムリエさん達とも、造り手さん達とも親しくなっっていった。
ランブロワジーのピエール・ル・ムラック氏とその家族との交流も深くなった。

 八十年代後半に設立された、美術とワイン関係のフランス女性の<ベル・バカント>の会の
たった一人の日本人として選ばれて、年四回の三つ星レストランでの勉強会&食事会に東京から出かけていた。
日本ではお目にかかれなかった、絵画や美術品に近く接して、オークションハウスに通ったのも
この時期だった。

 政財界から退いたガンス夫妻が、サンテミリオンに朽ちたワインシャトーを購入したのもこの頃だった。
彼らは十年かけてパリとサンテミリオンを通って、シャトー・カデ・ボンを10年後のサンテミリオンワイン格付けで見事、
グランクリュクラッセに返り咲かせたときには、お祝いの宴にかけつけた。
二つ目のシャトー・キュレ・ボンには、マルセリーヌが幼少の頃に訪れた安芸の宮島の、
あの朱色が忘れられなくて、彼女はなんとワイン醸造の場所の天上は朱色の漆喰のような木組みにして、
そのしたの銀色のステンレスタンクと見事な調和をなしていた。
ワイン蔵は紀元前からの岩山の通路、そしてうしろの高台のは、彫刻家ベルナール ヴネの
6メートルものの字のオブジェをパリから運んでいた。
(後にこのシャトーは、シャネルに渡ることになる)

お祝いには、宮島の朱色と作った現地の大工さんたち(彼らは招かれたことをとても喜んでいた)、
パリの社交界の面々、もちろん近隣のワインナリーオーたーやベトリュスのオーナーや、
そしてボルドーからは、フィリピーヌ・ロッチルドやピノ−夫人もかけつけていた。
ベルナールがジスカールデスタン時代の大蔵官僚的な人物だったので、政界の方も出席していて
(彼らは二十一世紀になって二つとも手放して、スイスに居城を移してしまったが、、、)

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  (サンテミリオングランクリュクラッセに返り咲きを祝って、オーナーのベルナールガンスに
自作のカードをたくさん送ったものは1996年)

http://keico.exblog.jp/5691687
2007.06.05 火曜日 まだ夜は明けない
旧友の手紙を運ぶ青い風

a0031363_2349502.jpg (翼をあれが巴里の灯か! 
ボルドーからパリへプライヴェートジェットで向かう折りに)

(彼らのプライヴェートジェットの操縦室から移したたった一枚の記念の写真からカードを創った)

 ある日のブログから
<フランスでの旅の思いでが走馬燈のように走る、、、
モンサンミッシェルへの日帰りの車の旅、ロワールのフランソワ一世のシュノンソー城、、、、、、
ヘリコプターから落ちそうになって撮ったヴォルヴィックの水源、
ムートンロッチルドの図書室でのディナー、マルセリーヌのプライベートジェットで通ったサンテミリオン、、、、、
ボルドーのオペラハウスの椿姫と、その後のギャラディナー、アランジュペ氏の顔が浮かぶ、、、
ブルゴーニュの幻の葡萄畑、シュバリエを受けた時の宣誓言はなんだったかな、、、>

http://keico.exblog.jp/737899
2004.07.25
父譲りで就眠儀式は読書なの

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( 数年後のMr. &Mrs. Bernard & Marceline GANS, スイスにて1995年)

a0031363_356746.jpg 、、、、左がMarceline、右がKeiko~~~~~~。
スキャンイングは失敗ですね、、、)

下記ブログから
http://keico.exblog.jp/6126882
2007.09.06 木曜日 風雨強し、台風近し
アデュー ルチアーノ・パバロッティさん

 そして、この年1997年の最大の思いでは、ボルドーのオペラハウスで椿姫観劇とその後にフォワイエでの
真夜中から始まった夜会であった。
パリからはフランス社交界の主なる人々が集まり、ボルドーの主なるワインの造り手が集ったこの宴は
東京の女性にとって、驚きだった。
この時の写真は、ギャラの時のスナップとして上のブログの中にのせてある。
<左から、マルセリーヌ・ガンス、アラン・ジュペ元フランス首相、
マダム・フィリッピーヌ・ロッチルド、右は私で、この日のために誂えた椿の辻が花の着物で。
招待者全員が、シャネルの白い椿の布のブローチを胸に付けている>

http://keico.exblog.jp/10437146
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い
残る花散るを忘るるみぞれかな

 彼らの紹介で、美術界の方々とも親しくなって、パリのドゥルーオーはもとより、
ロンドンのサザビーズやクリスティのオークションに、時にはニューヨークにも足をのばしたのは
この第三の時代であった。

 1996年のオランダのマウリッツハイス美術館での、世界中から一同に集まったフェルメール特別展は
このLES BELLES BACCHANTES ベルバカントの仲間との旅だった。
朝の7時から特別に鑑賞することができた珠玉のフェルメールとの対面だった。
(この時の写真はポジのままで整理がついていない、、、)
http://keico.exblog.jp/6805711
2008年2月17日 日曜日 晴れ
「恋するフェルメール―36作品への旅 」

http://keico.exblog.jp/13140301
2011年7月25日 月曜日
日曜美術館<“手紙”が語るフェルメールの真実

そして今雨の巴里で、
☆回想のわが巴里の街2000~2010を振り返り、
☆回想のわが巴里の街2010~2020への期待を考えている。

>>>>続く、、、、

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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そして今日の巴里、
20 December 2011 Paris


 最後の巴里も雨のパリ。
夕食のあとオペラ通りを歩いて帰り最後の一枚を!
あのブリジットヴァルどーが微笑んでいた。
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by pretty-bacchus | 2011-12-20 03:55 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(0)

☆回想のわが巴里の街~フランス人との交流歴
2011年12月18日 日曜日 a0031363_21252852.gif

フランス人との交流歴
 
= 幼稚園から中学まで 日曜学校の神父様と、父の知り合い、
= 十代後半から二十代前半の大学時代 神父様、先生方

= 二十代前半、卒業後すぐにエールフランスの上司

= 二十代後半から三十代、パリの駐在員としてドップリと会社の人たち、街の人たち、
そしてジャクジーヌとその家族、美容師のF、家主

外国人との交流を思い出せば、
幼稚園から中学まで、日曜学校の神父様と父や叔父の知り合いの外国人、
十代後半から二十代前半の大学時代は神父様と先生方、
卒業後すぐにエールフランス入社だから、会社のフランス人上司
二十代後半から三十代はパリの駐在員としてドップリと会社のフランス人たち、街の人たち、
そしてジャクリーヌとその家族、美容師のF、近くのレストランのオーナー達、家主くらいかな、、、。


= 三十代後半から四十代前半
メリディアンチェーン日本代表として
エールフランス本社のおえらさん
メリディアンチェーンの社長、スタッフ、六十カ国の方々
レストランのシェフ、ソムリエさん達、
とくにピエール・ル・ムラック氏とその家族

= 四十代半ばから五十代後半までの十五年
どういうわけか、二十四年の古巣のエールフランスの方々とは疎遠になる。

 友人の紹介で、美術界の方々と親しくなる。
エクスペール(美術鑑定家)のキャマールさん一家、

レストランのシェフとソムリエさん達
 ワインの造り手たち

 エクスペールKさんの紹介で、マルセリーヌ&ベルナールGと知己を得る。

フィリピーヌ・ロッチルド


身内の会社で、しぜんに洋酒部の仕事にかかわっていったから、海外への旅では、
今までのホテル経営のレストランとパリの星レストランだけではなく、
地方のミシュランの☆のレストランにもどんどん訪れ始めた。
自然にレストランのシェフ、ソムリエさん達とも、造り手さん達とも親しくなっっていった。
ランブロワジーのピエール・ル・ムラック氏とその家族との交流も深くなった。

八十年代後半に設立された、美術とワイン関係のフランス女性の<ベル・バカント>の会のたった一人の
日本人として選ばれて、年四回の三つ星レストランでの勉強会&食事会に東京から出かけていた。
 
 政財界から退いたガンス夫妻が、サンテミリオンに朽ちたワインシャトーを購入したのもこの頃だった。
彼らは十年かけてパリとサンテミリオンを通って、シャトー・カデ・ボンを10年後の
サンテミリオンワイン格付けで見事、グランクリュクラッセに返り咲かせたときには、
お祝いの宴にかけつけた。
二つ目のシャトー・キュレ・ボンには、マルセリーヌが幼少の頃に訪れた安芸の宮島の、
あの朱色が忘れられなくて、彼女はなんとワイン醸造の場所の天上は朱色の漆喰のような木組みにして、
そのしたの銀色のステンレスタンクと見事な調和をなしていた。
ワイン蔵は紀元前からの岩山の通路、そしてうしろの高台のは、彫刻家ベルナール ヴネの
6メートルものCの字のオブジェをパリから運んでいた。
(後にこのシャトーは、シャネルに渡ることになる)

 お祝いには、宮島の朱色と作った現地の大工さんたち(彼らは招かれたことをとても喜んでいた)、
パリの社交界の面々、もちろん近隣のワインナリーオーたーやベトリュスのオーナーや、
そしてボルドーからは、フィリピーヌ・ロッチルドやピノ−夫人もかけつけていた。
ベルナールがジスカールデスタン時代の大蔵官僚的な人物だったので、政界の方も出席していて
(彼らは二十一世紀になって二つとも手放して、スイスに居城を移してしまったが、、、)

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  (サンテミリオングランクリュクラッセに返り咲きを祝って、オーナーのベルナールガンスに
自作のカードをたくさん送ったものは1996年)

http://keico.exblog.jp/5691687
2007.06.05 火曜日 まだ夜は明けない
旧友の手紙を運ぶ青い風

a0031363_2349502.jpg (翼をあれが巴里の灯か! 
ボルドーからパリへプライヴェートジェットで向かう折りに)

(彼らのプライヴェートジェットの操縦室から移したたった一枚の記念の写真からカードを創った)

 ある日のブログから
<フランスでの旅の思いでが走馬燈のように走る、、、
モンサンミッシェルへの日帰りの車の旅、ロワールのフランソワ一世のシュノンソー城、、、、、、
ヘリコプターから落ちそうになって撮ったヴォルヴィックの水源、
ムートンロッチルドの図書室でのディナー、マルセリーヌのプライベートジェットで通ったサンテミリオン、、、、、
ボルドーのオペラハウスの椿姫と、その後のギャラディナー、アランジュペ氏の顔が浮かぶ、、、
ブルゴーニュの幻の葡萄畑、シュバリエを受けた時の宣誓言はなんだったかな、、、>

http://keico.exblog.jp/737899
2004.07.25
父譲りで就眠儀式は読書なの

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( 数年後のMr. &Mrs. Bernard & Marceline GANS, スイスにて1995年)

a0031363_356746.jpg (ブログ初公開、、、、左がMarceline、右がKeiko~~~~~~。

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下記ブログから
http://keico.exblog.jp/6126882
2007.09.06 木曜日 風雨強し、台風近し
アデュー ルチアーノ・パバロッティさん

 そして、この年1997年の最大の思いでは、ボルドーのオペラハウスで椿姫観劇とその後にフォワイエでの
真夜中から始まった夜会であった。
パリからはフランス社交界の主なる人々が集まり、ボルドーの主なるワインの造り手が集ったこの宴は
東京の女性にとって、驚きだった。
この時の写真は、ブログで初公開のギャラの時のスナップ。として上のブログの中にのせてある。
<左から、マルセリーヌ・ガンス、アラン・ジュペ元フランス首相、
マダム・フィリッピーヌ・ロッチルド、右は私で、この日のために誂えた椿の辻が花の着物で。
招待者全員が、シャネルの白い椿の布のブローチを胸に付けている>

http://keico.exblog.jp/10437146
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い
残る花散るを忘るるみぞれかな

 彼らの紹介で、美術界の方々とも親しくなって、パリのドゥルーオーはもとより、
ロンドンのサザビーズやクリスティのオークションに、時にはニューヨークにも足をのばしたのは
この第三の時代であった。

 1996年のオランダのマウリッツハイス美術館での、世界中から一同に集まったフェルメール特別展は
このLES BELLES BACCHANTES ベルバカントの仲間との旅だった。
朝の7時から特別に鑑賞することができた珠玉のフェルメールとの対面だった。
(この時の写真はポジのままで整理がついていない、、、)
http://keico.exblog.jp/6805711
2008年2月17日 日曜日 晴れ
「恋するフェルメール―36作品への旅 」

http://keico.exblog.jp/13140301
2011年7月25日 月曜日
日曜美術館<“手紙”が語るフェルメールの真実

 
~~~~~~~~~~~~~

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そして今日の巴里、
09 December 2011 Paris

by pretty-bacchus | 2011-12-19 23:59 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(0)

☆回想のわが巴里の街1980~1990 エッフェル塔100年記念
2011年12月16日 金曜日 雨 その二
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 不思議な巴里の滞在だ。雨に恵まれ?回想のパリはまたとない思考の巴里となり、、、、。
その上体調の悪さで、アポイントメントをキャンセルして少しゆっくりできている<冬の巴里>

 1987年にメリディアンチェーンを辞めた私は、手術を無事生き抜いたたあと数ヶ月呆然としていた。
大きな事件に巻き込まれた故でもあったが、仕事人としての二十数年にも疲れ果てていたのだろう。

 身内の会社のウィンタースポーツ用品の開発&輸入は大きく成長して、
トニーザイラーさんやヘルムートさんスターンさんなどオーストリー、スイス、イタリーでの知人もできていった。
弟が経理と総務を守り、ミラノに駐在事務所を出したのもこの頃で、従兄弟が初代駐在員、
ついでオーストリーのザルツブルグにもと大きく発展していった。

 そして1987年には創立十五周年のレセプションを企画して、それまでお世話になった方々をお招きした。
400人へのご招待状だったのだが、なんと500人近いお客様がいらしてしまって、大慌て、、、。
ゲストは、トニーザイラーさん、パリの三つ星ジョエルロブションのシェフソムリエ、
シャトーカデボンのガンス夫妻、そして日本語でのワインの説明は、田崎さんという顔ぶれて、
彼らに一目会いたいと、招待者の友人達が遠くからかけつけてしまったということだった。

ニューオータニの一番広いお部屋とフォワイエを借り切っての夕べは、
まだ日本ではあまり飲めないようなボルドー&ブルゴーニュの美酒が振る舞われた。

仕事が順調に伸びたのは、右肩上がりの日本経済におうところも多かったのだろうが、
天地人にも恵まれたのだという、その日の主賓のA社の鬼塚社長のスピーチが印象的だった。

事務所には、銀行の支店長クラスの方が日参して、やがて自社ビルを造ることになっていった。
日本中がそんなふうに右肩上がりの時代だったのだ。

 しかし>>>好事魔多し。(つづきは、☆回想のわが巴里の街1990~2000へ

 八十年代最期の年は、1989年6月4日には天安門事件が起こって世界は新しい波動が起こっていた。

 この十年の最期の最高の思い出は、遠い昔の方との再会!
それは、巨人の長嶋茂雄さん!高校の大先輩の巨人軍の長嶋茂雄さんと再会したことだった。
それも巴里での1989年のパリ祭で! 

最初に長島さんにお会いしたのは、彼が巨人軍で活躍しているときで、母校を訪問したおり。
男子校で少ない人数の女史のなかで雅子さんと私が選ばれて、週刊誌の写真撮りが行われて、
花嫁候補と騒がれたりしたのだった。
その後は、十年くらいがすぎて巴里でであった。
長島さん達巨人軍の選手の方とは、70年代に巴里でお食事をご一緒させていただいていた。
その当時は、セリーグの巨人が優勝すると、エールフランスがスポンサーでパリに選手がご招待された頃だったのだ。

 そして、またまた十数年たった、1989年の7月。
それを遡る200年前の1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃占領し、多くの政治犯を解放したこの日が
フランス革命の始りで、日本で「パリ祭」と呼ばれているのは、ルネ・クレール監督の映画
"Le Quatorze Juillet"(7月14日)の二度目の邦訳名が『巴里祭』だったことに因むのだが、
やはり平和な時代には革命記念日よりパリ祭があっているような気がする。

 そしてバスチーユの百年後1889年に、記念として建てたれたのがエッフェル塔。
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるコンペティションが開かれた。
ギュスターヴ・エッフェルほか二者の案が採用になった。

 1789年のフランス革命二百年、エッフェル塔の百年記念の
その二つのお祝いが華やかに行われて有名人が巴里に招待されていた1989年7月。
例年のように、フランス空軍が誇る機種がパリの上空を飛ぶ7月15日。
パリ祭と言われるこの日は、私の誕生日と重なり、しばし生の喜びに浸っていたわたし。

私の生まれた7月15日(パリ時間の14日午後6時)は暑い日だったという。
フランスに西洋に憧れていた父の願いがかなって、娘はパリでの祭りの歓喜の頃に、
此の世にあらわれたのだろう、と勝手に思っていた。
(その父は一度もパリにはこずに、何度招いてもうんといわずに、その代わりに、
母が何度もパリを楽しむことになった、、、)

 長島さんを巴里のレストランでお見かけしていて、会釈だけしたのだが、偶然にも東京へお帰りの
飛行機の
ファーストクラスで一人の席にいらした彼にお目にかかっていろいろお話しすることができたのだ。
高校の野球部の井原先生のことなどもお話しして時をすごした。

〜〜〜〜

 そして、80年代最期のハイライトは、1989年11月のベルリンの壁崩壊で、世界は大きく舵を取られはじめたのだ。

四十代後半になっていた私の人生もまた大きく最期の花を開きはじめていた。

〜〜〜〜
このブログでアップしたエッフェル塔のいろいろを、、、、
エッフェル塔の四十年前から、

 最初の巴里の1966年6月に、、、、、
1966年と言うと四十五年前? 
初めての巴里で、トロカデロ広場でエッフェル塔をみて思わず走り、四角い石にひょんと飛び乗ったら、その先はなく、、、、。
最初からそんな驚きの巴里への旅だったのです。

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 そして、ミレニアム2000年をさがのぼる832日前の記録があるが、データは残っていない。
幸いにもエールフランスの機内誌のスカイブティックに使ったものが残っているので、、、
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そして
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(二十一世紀を前にエッフェル塔にはカウントダウンの光が入った)


ミレニアム2000年のカウントダウンの
1990年代最期の、夜のパリの大好きな一枚は、
a0031363_1331981.jpg

(好きな写真の一枚。1999年12月、西暦2000年まであと22日とエッフェル塔に灯がともる。
メリーゴーランドが回って人々を夢に誘っていた、、、。
(この時代のコンタックスツアイスレンズで、夜に手持ちで一瞬のこの写真を撮るのは至難の業だった)

エッフェル塔にダイアモンドイリュミネーションが輝きだしたのは、ミレミアム2000年を過ぎてからだった。
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  2000年の12月からダイアモンド照明がされ、二十一世紀へのカウントダウンがはじまった。
(夕闇のトロカデロからシャイヨー宮、アンバリッドなどがのぞまれる)
(最初のデジカメ200万画素でも、こうしてなつかし記憶と思い出になる。
一瞬の写真が長い間の記録になり、のこされていく、、、、、やっぱり写真は素晴らしい!

そして、一枚前のショットは前日の2000.12.17 の真夜中のパリの光り輝くエッフェル塔の一枚でした。

 写真って楽しい〜〜〜そしてデジカメ時代の写真って凄い!
写真の記録は記憶を甦らせ、時に希望の光を放つのだ!
 
a0031363_814599.jpg  (毎時5分〜10分だけダイヤモンドイリュミネーションのエッフェル塔の年齢は? )
(21 Dec,2008 Paris)

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2009年9月10日のブログ


http://keico.exblog.jp/9435668/
エッフェル塔は御年120才
2009年12月14日 月曜日 曇り後晴れ

2008年のエッフェル塔h、EUの数の☆が輝くブルー
http://keico.exblog.jp/7770647/
遡っての巴里の記録 七日目

http://keico.exblog.jp/7770652
遡っての巴里の記録 七日目 その二

a0031363_18101427.jpg  (Dec 2008 Paris =友人から送られた写真)


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2008年12月21日 日曜日のブログへ
遡っての巴里の記録 七日目 12月21日

遡っての巴里の記録 七日目 12月21日続き
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(21 Dec,2008 Paris アレキサンダー三世橋の像と遠方のエッフェル塔を多重でトライ)

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遡っての巴里の記録 七日目 12月21日の続きで


 そして、今回のパリのエッフェル塔です!!

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 (16 December 2011 Paris, La Tour Eifell à Pont Alma )

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(La Seine et La Tour Eifell à Pont Alma)

~~~~~~~
追記;今回の巴里のエッフェル塔をいくつか

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~~~~~~~~~~
続く、、、
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そして今日の巴里、
16 December 2011 Paris




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〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 追記;
そして二十一世紀のエッフェル塔は、
JourneyAbroad旅海外2005
JourneyAbroad旅海外2006
JourneyAbroad旅海外2008
にたくさんある

More>>ブログの検索で<暗い日曜日>の一部
by pretty-bacchus | 2011-12-16 23:58 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(2)

エッフェル塔100年記念
(原稿途中)
2011年12月15日

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 そして、ミレニアム2000年をさがのぼる832日前の記録があるが、データは残っていない。
幸いにもエールフランスの機内誌のスカイブティックに使ったものが残っているので、、、
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そして
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(二十一世紀を前にエッフェル塔にはカウントダウンの光が入った)


ミレニアム2000年のカウントダウンの
1990年代最期の、夜のパリの大好きな一枚は、
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(好きな写真の一枚。1999年12月、西暦2000年まであと22日とエッフェル塔に灯がともる。
メリーゴーランドが回って人々を夢に誘っていた、、、。
(この時代のコンタックスツアイスレンズで、夜に手持ちで一瞬のこの写真を撮るのは至難の業だった)

 エッフェル塔にダイアモンドイリュミネーションが輝きだしたのは、
ミレミアム2000年を過ぎてからだった。
a0031363_0193887.jpg
  2000年の12月からダイアモンド照明がされ、二十一世紀へのカウントダウンがはじまった。
(夕闇のトロカデロからシャイヨー宮、アンバリッドなどがのぞまれる)
(最初のデジカメ200万画素でも、こうしてなつかし記憶と思い出になる。
一瞬の写真が長い間の記録になり、のこされていく、、、、、やっぱり写真は素晴らしい!

そして、一枚前のショットは前日の2000.12.17 の真夜中のパリの光り輝くエッフェル塔の一枚でした。

 写真って楽しい〜〜〜そしてデジカメ時代の写真って凄い!
写真の記録は記憶を甦らせ、時に希望の光を放つのだ!
 
a0031363_814599.jpg  (毎時5分〜10分だけダイヤモンドイリュミネーションのエッフェル塔の年齢は? )
(21 Dec,2008 Paris)

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遡っての巴里の記録 七日目 12月21日

遡っての巴里の記録 七日目 12月21日続き
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(21 Dec,2008 Paris アレキサンダー三世橋の像と遠方のエッフェル塔を多重でトライ)

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遡っての巴里の記録 七日目 12月21日の続きで


 そして、今回のパリのエッフェル塔です!!


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 追記;
そして二十一世紀のエッフェル塔は、
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by pretty-bacchus | 2011-12-15 23:55 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(0)

☆回想のわが巴里の街1980~1990 〜オルセー美術館
2011年12月14日 水曜日 雨のち晴れ
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☆回想のわが巴里の街 Memoires du Voyage Paris〜オルセー美術館 Musée d'Orsay:

 フランスでの旅の思いでが走馬燈のように走る、、、
モンサンミッシェルへの日帰りの車の旅、ロワールのフランソワ一世のシュノンソー城、、、、、、
ヘリコプターから落ちそうになって撮ったヴォルヴィックの水源、
ムートンロッチルドの図書室でのディナー、マルセリーヌのプライベートジェットで通ったサンテミリオン、、、、、
ボルドーのオペラハウスの椿姫と、その後のギャラディナー、アランジュペ氏の顔が浮かぶ、、、
ブルゴーニュの幻の葡萄畑、シュバリエを受けた時の宣誓言はなんだったかな、、、
覚えていたはずなのに、出てこない、、、

 柳沢さん達と初めて超えたピレネー山脈とサンジャンピエドゥポールの街、
サンチャゴデコンポステーラへの道のレオンの聖堂、、、、、
パリでなくなった朝日放送の原さんのこと、
、、、ベットの上でうなるように頭が回っている、、、

 そうだ〜〜〜、二十代の駐在員の頃は、泣きながらシャンゼリゼのオフィスに通ったこともあったっけ、、、
あの時いつも見守ってくれたムッシュはいまどうしているかしら、、、、

 1980年代は、世界的な動きが加速する中、戦後日本経済は80年代後半におけるバブル経済によって
絶頂期を迎えた10年間だった。
私の人生も、ある意味絶頂期の前触れだったかもしれないが、その反面青天の霹靂での最悪の事態も起きた時期だった。

 6年間のメリディアンチェーン代表としての仕事のすぐあとに手術をした。
その87年に、知人のある大きな事件に巻き込まれたのだった。
親しくしていたご家族Fさんの奥様とお嬢様を案内して何度か一緒にヨーロッパの旅をしたことが、
当時の検察には不自然とうつったようで、その上六年間の代表としての間に何十回も海外に仕事で飛び回っていた
日本女性に対する男性たちのある種の興味も含めてと思われる、突然のそれもとてもいやな事態となったが、
友人の弁護士さん達にたすけられて疑いは晴れた。
また、何年もしてからわかったのだが、事件を調べた関係者の中に母のお茶のお弟子さんのご主人がいらして、
その方が〝ケイコチャンは絶対に悪いことはしないと、何度も話してくれたとのことだった。
その方とは今は親しくおつきあいがつづいている。

すねに傷がない潔白なわたしは、常に毅然たる態度で接していたし、それどころか、ある検事さんの暗黙の依頼で、
彼の音信不通になっていた家族をパリで訪ね探すというとてつもないことなどもあって、
この事だけでも当時の日本経済と一女性の深層小説が一冊書けてしまうような様相と経験であった。
(パリはそれほど遠い都だったわけで、男性検事たちにとってもあこがれだったのだろう。)
その時の担当の検事さんの一人とは今でも交流があるのも人生の味わいであるだろう。

 その辛さを補ってくれたのは、やはり巴里!
巴里の自然と美術館とレストランであり、ワインの造り手との出会いだった。
90年代の人生を彩るフランスの貴族階級や政財界の方々やアート部門の方々と親しくおつきあいをはじめたのも、この頃だった。
人生は一度しかない、、、それならば、いただいたご縁を遠慮することなく謳歌するのもいいではないか
と思い始めたのだ。
会社人間の間は、その枠をはずしことはいけないという時代だったから、あまり人間関係を広げなかったが、
87年に辞めてからは、自然と大きなご縁が生まれはじめ、素直にその社会に溶け込んでいった。

89年には、ラ・ベル・バカントという、フランス女性のハイソなサークルのただ一人の日本女性として
加わることになった。
この会は仕事をしている中年女性がアートと食とワインを楽しみながら一緒に美しく年をとろうというようなコンセプトで、
三ヶ月に一度三つ星レストランでのランチオン、一年に一度のアウティング、などか企画された。
二十数人の女性の内には、シャンパンメーカーのオーナー夫人、ムートンのフィリピーヌ・ドゥ・ロッチルド、
プランタンなどのオーナー夫人(その数年後にシャトーラトゥールを買収したピノ−夫人)、
フランス女性最初のノテール&弁護士、シャトーカデボンのガンス夫妻、大会社の広報担当官など、
蒼々たる女性の会であった。
彼らとのその後十数年のおつきあいは、いままでの私の世界観も芸術感も大きく変えていったのだった。

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(Mar 1996 Bordeau Opera House Gala Dinner, アランジュペ首相、
バロネス・フィリピーヌ・ド・ロートシルト、マダムマルセリーヌガンス、そして私!)
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(June 1996 Les Belles Bacchante のアウティングでオランダへフェルメール展を観に!)

>>>☆回想のわが巴里の街1990~2000、に続く、、、、、。

 オルセー美術館は1986年に開館していた。
オルセー美術館 (Musée d'Orsay) は、19世紀美術専門の美術館で、印象派の画家の作品が数多く収蔵されている。
オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって
建設された
オルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。
美術館の中央ホールは、地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用されていて壮大で、
建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残っている。

旧印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品は、すべてオルセーに引き継がれて、
ノスタルジックな思いの中で印象派の絵画を鑑賞できるようになっていた。

 パリ市内の主要美術館は、それぞれのコレクション年代毎に役目が分けられている。
ルーヴル美術館は、古代から1848年までの作品が主要コレクション。
古代美術からのルーヴル以降の、1848年から第一次世界大戦の始まる1914年までの作品を展示する
オルセーはフランス近代美術の殿堂。

後期印象派やオリエンタリスムなどはもちろんのこと、二階のアールヌーヴォーのガレ、マジョレル、
ガウディの家具や 
ナンシー派のガラス工芸品は、その頃の私を魅了して、コレクション熱につながっていった。

印象派以後の時代の作品はボーブールにあるポンピドゥセンター。
ここでは、二十世紀の絵画と彫刻のコレクションを主として、フォーヴィズム、キュビズム、
シュールレアリズム、
アメリカ抽象表現主義などを揃えていての総合芸術文化施設。

 冬のセーヌは暗く寒いが、遠くからこの美術館の光が見えてくるとなぜかほっとするのだ。
ルーブルとは違った美術館の安らぎがあるのもこの美術館なのだ。

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(14 December 2011 Paris、La Seine 対岸の建物の灯火がともり始める頃に、セーヌをゆく船の灯火もつく、、、) 

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(14 December 2011 Paris、Pont des Arts sur La Seine ) 


〜〜〜〜〜〜〜〜〜
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そして今日の巴里、
14 December 2011 Paris
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>http://keico.exblog.jp/14176547
そして今日の巴里 2011年12月14日
a0031363_213449100.jpg (バスに乗って、、、、)

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~~~~~~~~~

後日バスの中からのスナップ:
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 (18 December 2011Paris, Musée d'Orsay:
De la fenêtre de voiture de l'autobus 42)

More>>1980年代後半からの旅の思い出いろいろ
by pretty-bacchus | 2011-12-14 23:56 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(2)

☆回想のわが巴里の街1980~1990 〜メリディアンチェーン
2011年12月13日 火曜日a0031363_21252852.gif
☆回想のわが巴里の街1980~1990

 70年代最期に大きな手術を受けた後、1981年の三月に突然辞表を出した。
あ^〜これで、あまりストレスもなくゆっくり出来る〜〜〜。
しかしそうはいかなかったのだ。

 この時期はジャンボがどんどん飛びはじめ、日本からの海外への出国者が500万人をこえたばかりだった。
航空会社がホテルの経営に乗り出したのもこの頃だった。
JALのJALホテルシステム、そしてエールフランスのホテルメリディアンチェーン。

 ホテルメリディアンチェーンはエールフランスの100%子会社としてパリに設立されていて、
第一代代表の原滋さんが二年でしりぞかれて、その後がまに、こともあろうか女の私にお鉢が回ってきたのだ。
本社はパリで、まだホテルも二十ほどしかなく発展途上にあった。

とても無理だし女だし(当時はそういう時代でした)と辞退を重ねたのだが、人事部長におしきられた。
あなたしかいない、、、パリを知りホテルを知り業界を知っているのは、、、などとおだてられて、、、、。
説得の話が続いて、冬なのに、何時間も座っていた椅子が汗びっしょりになった。

 家に帰って相談したら、連れ合いはなんと
「面白い経験だからしてみたらいいよ、とのたまわったのだから、もうびっくり!
かなり跳んでいたカップルだった(のだろう)
(その十年前パリ駐在員に出た時も、そう言ったのだ)
そして当時としては全く異例の逆単身赴任で、私は多くの人に万歳で送られて羽田空港を発ったのだ。

 ~~~~~~~~~~~

 突然に放り込まれたホテルチェーンの仕事の辞令を受けて、数日後にはパリの本社で面接を受けていた。
マレスコ社長の最初の質問は、「今度のミッテラン政権をどう思いますか? であった。
日本語だって答えられない内容なのに、フランス語で言えるわけはないではないか、、、、って思いながら、わからないままに、
「機内の新聞で読んだのですが、フランスに新しい風がふくのではないでしょうか、、、
というような答えをした。
これがよかったのだと、かなり後から聞かされた。
フランスのチェーンのそれも国営会社の代表として仕事をするときに、
政治的なことは自分の意見をあまり言わない方がよいらしいことも後で教えられた。

 早速に出席したパリ本社の会議でも目を白黒ばかりであったが、
誕生したばかりのフレンチタッチと優雅な内装やアメニティー、そしてホスピタリティーを売りにして
世界中に進出しはじめた
<憩いの場所>の仕事におもしろさを感じ始めたのだ。
日本航空のJALホテルシステムも同じ時期に出来ていた1981年のことである。

 さっそくに世界各地のホテルを訪れてのマーケッティング。
日本人客を送るためのプロモーションプランを作っていった。
この時に、今まで泊まってみていたヨーロッパの四つ星ホテルでの経験がとても役に立ったことはいうまでもない。
パリの本社では、女性が大勢活躍していた。
ミリアム・ルールというチャーミングな女性が私の直属の上司で、その上に男性達だったが、
ここではハラスメントなどなかったし、和気藹々の会議であり発展途上のホテルの仕事だった。
今思うと古き佳き時代で、思う存分仕事をすることができたと思っている。

 中近東にもホテルは進出していた。
しかし、中近東の仕事は少々勝手が違っていた。
パリやニューヨークや東南アジアならともかく、中近東は今でもそうだが、当時女性が、
それも日本女性が一人で出張に出かける地域ではなかった(と思う)。
黒いスーツと黒いアタッシュケースを新調して、ビザを取って、一人旅立ったのは
81年のクウェイト、シャルジャ、アブダビのリサーチだった。

当時現地にはすでにインターコンティホテルも、ヒルトンホテルなどがあった。
アブダビとシャルジャのメリディアンは出来たばかりであった。
現地のホテル全部を訪れて、その施設とホスピタリティーとかのソフトを含めてみて歩き、
日本人の目で見て本社にレポートを書くのも仕事の一つだった。
(今のようにPCは進歩していなかったから、帰国してからタイプを打ってレポートを書くことになる)
それらのホテルと比較して、メリディアンのホテルをどういう風に販売促進していったらよいかを
研究しなければならなかったのだ。
五十度近い炎天下を現地スタッフと一緒に何日かを歩いたものだ。(もちろん車で)

 ホテルチェーンとしては当時は珍しかった女性の日本人の駐在員を送ることにしたのもこの後だった。
翌年の三月にはアブダビメリディアンで大きなレセプションが行われた。
当時の現地の新聞が残っているので、いつもとってもなつかしく思い出している。
(THE GULF NEWS 、1982年3月13日 土曜日のアブダビの新聞)

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なんと細かったか〜〜〜
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  あのころグーグルアースがあったら、旅はもっと楽しかっただろうな〜〜〜

ドバイ、アブダビ、シャルジャのホテルの紹介で、アラブ首長国連邦のホテルメリディアンチェーンの
オープニングパーティーに出席して私は着物姿で日本語と英語で挨拶をした。
外務省からの中山大使や日本航空の有賀さん、現地の商社の方々も出席してくださった。
鹿島建設のの石川六郎さんもいらしたと思う。
ホテルのオーナーはアラブ人だが、ケンブリッジをでたナイスガイで、引き連れていた女性たちの美しかった事がとても印象に残っている。

 なんと翌日は、「こんなことは始めてだ! と現地の人々が驚いたほどの大雨で、シャルじジャへの砂漠が水で溢れていた。
そして翌日私はまた一人で隣国クウェートへ旅立ったのだ。
なつかしい〜〜〜。

 ホテルメリディアンチェーンは、その当時発展途上にあって次々を世界中にホテルを建設し始めていた。
知名度ゼロのフランスのホテルにいかに日本人を送るかも私の仕事だった。
パリやツールやニースが比較的うまく運び出した頃に、クウェート、アブダビ、ドバイ、シャルジャとつづき、
やがて香港、シンガポール、スリランカ、アメリカではニューヨークのパーカーメリディアン、ヒューストン、
ボストンとたてつづけにオープンした。
それぞれのホテルを訪ねて販促のプラニングを進めていった。
東京にも業務提携のホテルができた。(パシフィックメリディアン)

 その後も海外への出張は続いた。
フランスの本社の多くは女性が活躍していて、日本人だからなどといってはいられらなかった。
ホテルメリディアンチェーンの60カ国のインターナショナルミーティンがあると、
その代表の三分の一は女性だった。
髪の毛を何十本もの細い三つ編みでかざったアフリカの女性もいた。
ある時などは、一週間ニースのホテルにカンズメで朝から晩まで会議会議で、夜はオフィシャルディナーがつづき、
朝遅れたりすると、その人のポジションが次にはなくなるといわれていたほど厳しい会議だった。

(その時期くらいから、世界中で女性の進出がはじまったのかもしれない。
日本では女性が23時以降働くのが禁止されていた時代で、男女均等法なる法律ができたのは、
その数年後だった)

 それから六年間私は休む事なく世界中をまわることになった。
航空会社で足があり、ホテルで宿があるということは、多くの可能性を持っていた、
マーケティング&セールスには飽き足らずに、日本とフランスの文化交流にも多くの時間をさいた。

 朝日新聞事業部とか阪急とかとのお手伝いで新しい旅の形をクリエートしていった。
ジャックメドゥサンが市長の頃に、ニースでの<日本伝統工芸週間>を花野さんと造りあげたときには、
母がお茶とお花のお弟子さんを引き連れて手伝ってくれた。

 東京ではエールフランスのオフィスの一部屋で、少ないスタッフで私は365日休み無し
、毎日真夜中まで頑張った。
夜景のおじさんが一時間おきに回ってきてくれるのがとても心強かった。

 海外出張は年十数回、パリ、ニューヨーク、香港エトセトラ、その後のレポート提出、エージェントさんへの営業、接待、、、
海外からのお客様との会議などで私はほとほと疲れ始めていた。
東京オフィスは、アジアパシフィクオフィスをカヴァアーする重要なオフィスとなり、
さらに発展の時期にあり、なんと<アジアパシフィック代表>というそのポジションをほしがる男性が
何人か出てきたのだ。
それと共にセクハラ的な言動も出てきた。

 ちょうど六年がすぎたある日、私は突然辞表をだした。
それもPAC=プランダクションコメルシアルという年度始めのエールフランス本社支社、子会社を含む戦略会議で、
フランスの本社からも何人ものおえらさんが出席していた年に一度の会議でであった。
辞表を用意していたが最後まで逡巡していてのだが、
やはり自分を抑える事が出来なかった。(若かったのだな〜〜〜)
当時の女性としては年収、地位は最高だったろう。
引き留められたが、決心は変わらなかった。
会場となった箱根のホテルの帰り道は雪で覆われ、富士山がことのほか綺麗だったのが、
昨日のことのように思い出される。

〜〜〜〜〜〜〜

 突然体中の力が抜けた。そしてその二日後に入院して大きな手術を受けた。
多分ストレスと過労とかいろいろで、私のお腹の中には大小18個もの腫瘍ができていて、
四時間半の手術を受けて、その全てを摘出したのだった。
「あと二日遅れていたら腸内で爆発して命がなかったかもしれないですよ、
と麻酔が切れるまで付いていてくださった、主治医の高山先生は微笑んでいた。
そして先生は母には、「強いんですね、とおっしゃったそうで、
母は大変な手術に耐えて強い子だったと思ったのだが、先生は麻酔がなかなかきかなくて、
お酒がツヨイのですね、、、、という意味だったらしい、、、、。

 大変であったが、しかし充実した二十三年間の仕事人生だった。
エールフランスのパリ駐在員の四年間と、メリディアンへ出向の六年間をふくめて、
二十三年の年月は、時代と共に燃焼した若さの時代だった。
「女性の進出の先駆けでしたね、キャリアウーマンのスターでしたね、
と多くの方が言ってくださるが、別にそれを意識していたわけではない。
その時代に与えられた、そう、ありがたくも与えられた仕事を必死で頑張り通しただけなのだ、、、。
それは多くの人々の支えがあったから出来たことなのだろう。
そして家族の理解があったからなのだ!

 あの時代に突っ走った経験があるからこそ、今の私が、今の友が、長く続く世界の輪が、
現在の喜びも悲しみもあると思っている。
オンリーイエスタディー であるような錯覚に陥るが、もう四半世紀もまえになるのだ。

 多くの方から惜しまれて一つの第二の仕事人生に終止符をうった。
ゆっくりした人生を送ろう。晴耕雨読の人生をと考えていたのに、しかし私の激動の人生、
ドラマティックな人生が、まだまだつづくことになるとは神のみぞ知ることであった。

 辞めた87年の晩秋に大きな事件に突然巻き込まれた。
いまでいう<村木事件>にも似た摩訶不思議な事に巻き込まれたのだが、
友人の輪が助けてくれて大事にはいたらなかったのだが、心痛はひどかった。

〜〜〜〜〜〜〜

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そして今日の巴里、
http://keico.exblog.jp/14176071/
平成23年12月13日(火) 雨のち晴れのブログへ
今日の巴里 13 December 2011 Paris>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

a0031363_10131032.jpg (マドレーヌ寺院の正面ファサードの上部をバスの中から)

a0031363_10143181.jpg(13 December 2011 pm4:27 Paris, La Seine à Pont Alma )

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(13 December 2011pm5:27 Paris , Pyramide du Louvre)


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by pretty-bacchus | 2011-12-13 23:57 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(8)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 ーアパルトマン
2011年12月7日 水曜日 曇りのち雨、雨模様、、、その一
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 あれはもう40年も前になるのだ、、、、、、
フランス語もおぼつかない私が突然の巴里駐在員に任命されて、
あれよあれよというまに巴里で仕事をすることになったのは、、、。
慣れない仕事に疲れ果て、ホテルに帰ってドアをしめると崩れるように座り込み
崩れてしまっていた、、、、あのころ。

 会社は部屋を探してくれなかったし、巴里到着翌日から仕事にかかっていた。
そのとき泊まっていたホテルは7区のアンヴァリッドのちかくのはずで、回りは庶民的な食料品店が多かった。
ホテルの中心にほんとうに小さい中庭があってとても慰められたのを覚えている。
今回はぜひ訪れてみよう。

 そして、仕事の合間に不動産屋さんを訪ねて何軒かをみて、やっときまって住み始めたのは、
車で空港にいきやすいようにとポルト・ドゥ・ヴェルサイユから少し街中に入った15区の七階のアパルトマンだった。
17 Rue Desnouette Paris Paris 15 arrondisement
この道は一方通行で、そこをでたところがリュウ・ドゥラ・コンヴァンションだった。角にはシャルキュトリ−があって、
うさぎとかイノシシの皮をむいたのが下がっていて、もうほんとうに驚いたモノだった。

家はその少し手前の右側のゲートを入って、中庭を問うって小さいエレヴェーターに乗って七階へ。
太ったもそもそと話す管理人さんのオジサンにはとってもよくしてもらったな、、、 
ゲートに入る左側にはハムやさん、チーズやさんなどがあった。
ジャンボン・ドゥ・パリと、ブリというチーズを覚えたのはこのお店で、おばさんがよくおまけをしてくれたものだった。

 芸術の都巴里の逸品たち、自然豊かなフランス全土の食とワイン、風物、、、
私たちは毎週末にフランス中を、いや世界中を旅しながら、フランス駐在を楽しみ始めた。
フランス人たちの粋とエスプリ、マナー、冷たそうな裏の優しさ、人間愛、なども
この時代に自然とわかっていったに違いない、、、
二十代に養われた、ヨーロッパ文化は、その後の人生に大きな豊かな感性を与えてくれた。
(それは日本文化の基礎があってのことなのだが、、<<<両親に感謝!)

 パリの暮らしに少し慣れ始めた私は、サンジェルマンやサントノレ通りやカンボン通りを歩き、
知らない小径を歩いて地図に赤い線を引いていった。地図はだんだんと色づいていった。
週末はクリニャンクールの蚤の市を歩き回ったり、

 その次のパリのアパルトマンは、1980年頃に友人のジャクリーヌの家だった。
81年からホテルメリディアンチェーンの仕事だったから、ポルトマイヨーのメリディアンパリの後の出口から数百歩の
Rue du Debarcadere. Paris 8 arrondisement
(1980年春から1990年頃まで)

扉をあけて最初の建物を抜けて中庭を通ってその先の二階だった。
この中庭からは一つ手前の建物の裏口に入れて、なんとここが一つ星のレストランだった。
ここのオーナー夫妻にはとてもよくしていただいたし、生涯の友人となったランブロワジーのディレクターの
ピエール・ル・ムラックとあったのもこのレストランでシェフソムリエをしていた頃だった。

そして十年後の1990年には、
1990年から2000年1月まで
2 Rud Boucicaut 15 arrondisement

どうやらパリのアパルトマンの歴史は十年ごとになったようだ。
2000年に病を得て、それらを縮小ししてから、もう十年以上になるのだ。


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 グーグルアースで、パリで住んだ三つのアパートメントにピンをうってみた。
 そのどれもからエッフェル塔がみえていたのが、よくわかる。

1969年9月から1973年春まで
17 Rue Desnouette Paris 15 arrondisement
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仕事場は、オルリー空港と、121 Avenue de Champs-elisee

1980年春から1990年頃まで
Rue du Debarcadere. Paris 8 arrondisement
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1990年から2000年1月まで
2 Rud Boucicaut 15 arrondisement

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(額の中の写真はブシコーのアパルトマンの玄関にて)


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(ブシコの家の玄関で撮った写真を東京の我が家で、、、)

そして2000年2005年2006年に10日間ずつお世話になったSさんの邸宅は、
15 quais de Montebello

~~~~~~~~~~~
〜〜〜〜
http://keico.exblog.jp/715454/
記念日は アポロ11号 月に着く
2011年12月12日 月曜日
記念日は アポロ11号 月に着く
2004.07.22
 人類初の月面到着。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。この時私は三度目のパリ行きの機内にいた。 

http://keico.exblog.jp/9187764
その頃の若い私はクリックしてみて下さい
凱旋門に励まされての遠いパリの日々
2009年11月1日 日曜日 


〜〜〜〜〜〜〜〜
そして
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今日の巴里、
07 December 2011 Paris >>> 次頁へ

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by pretty-bacchus | 2011-12-07 23:59 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(7)

1980年代後半からの旅の思い出いろいろ
2011年8月6日 土曜日 晴a0031363_21252852.gif


 湿度が高い暑い一日だった。
昨日は遅かったが、お昼にはおきて黙祷をささげた。

 昔の写真のポジ、ネガのほんの一部のプリントされていた1990年代後半の
簡易スキャンイングを数日続けた。
始めると熱中してしまうから、白々と明けてきてしまい、、、、、
蝉が鳴き始めると我に返ってようやく床に着く。
ちょっと疲れてきたので、このあたりで一時やめようと思ったのにはもう一つ理由がある。
どうも我田引水てきになってしまっていて、昔の仕事や旅のことなど自慢話てきになっ
てしまっているからだ。

またまた誤解を受けることになってしまうのではないか、、、とも思ってしまう。
パリ、イイデスネ、、、ゼイタクテスネ、、、メグマレテマスネ、、、
オジョウサマデスネ、、、エトセトラ、、、
それならブログのすべてを止めてしまえば良いことなのに、こうして八年も縷々として続けているのは
なぜなのかと、こんどは自己嫌悪。

 写真って不思議なの、、、、。
若い頃の写真をマックの大きな画面でみていると、その時代にす〜とタイムスリップしてしまって、
もうい〜ろいろの事を思い出してしまうの、、、。
そうでなければきっと思い出すことなくずっと脳の奥底で眠ったまま過ごしてしまうに違いないのに、、、。
(これってシュナプスが繋がるから、ボケ防止になるのかしら?)

 一枚の写真をみていると、
なぜわたしはそこにいったのだろう、、、
>>>撮った年代のことのいろいろが昨日の事のように頭をよぎる。
その時は誰と一緒だっだのだろう、、、
>>>その時代の人間関係がうかんでくる。
その日はどこのレストランで夕食をとったのだろう、、、あ! あそこだ!
シェフと何をお話ししたのだろう、、、、秋だから、きっとジロル茸のことかしら?
それともジビエのことかしら?
ワインの銘柄はなんだったかしら、、、
あの時代は、ボルドーにもブルゴーニュにも何度もいっていたし、五代シャトーのオーナー達とも
親しくなっていたころだから、、、

あ、そうだ、昨日アップした写真のランブロワジーでは、あの日にはシャトー・ラ・ツールの
ピノ−ご夫妻がいらしていて、ディレックたーのピエール・ル・ムラックさんにご指示なさり、
ラツールの82年をそっとテーブルにおいてくださったのだった。
(昨日までは記憶のかたたに潜んでいた<人生の旅>のひとときのことが突然よみがえってくる)
自分たちではレストランでは絶対にオーダーできない最高級のワインをごちそうになってしまったのだ。
シャトー・ラツールを訪ねたときには、ボルドーからパリへは彼らのプライベートジェットで
おくっていただいたりしていた。
その後プランタンを買収しなど、ますますのご活躍だが、もう十数年お目にかかってない。
お二人はお元気にしているのだろうか、、、会いたいな〜。

 思えば、八十年代後半からの最晩の二十世紀後半の十数年が、
私にとっては最初で最後の充実した第三の人生だったに違いない。
第一が生まれたときから学校を卒業するまでの二十二年、
第二は、そのあとのエールフランス&メリディアンチェーンでの二十三年、
そしてそれからの十数年の五十代最終までがわたしの第三の人生。
それぞれに充実した日々であったが、この第三が一番自由に羽ばたいていたように思われる。
第一の時代のキーワードはやはり勉強、学び、教育だろう。
第二の時代は、仕事、海外、だろうか。
そして第三は、それらをすべて背負っての新しい世界への飛躍かな、、、、。

 外国人との交流を思い出せば、
幼稚園から中学まで、日曜学校の神父様と父や叔父の知り合いの外国人、
十代後半から二十代前半の大学時代は神父様と先生方、
卒業後すぐにエールフランス入社だから、会社のフランス人上司
二十代後半から三十代はパリの駐在員としてドップリと会社のフランス人たち、街の人たち、
そしてジャクリーヌとその家族、美容師のF、近くのレストランのオーナー達、家主くらいかな、、、。

三十代後半から四十代前半は、メリディアンチェーン日本代表として
エールフランス本社のおえらさんや、メリディアンチェーンの社長&スタッフ、
そしてホテルがあった六十カ国のGMたち、と、すでにかなりの人たちとお目にかかっていたが、、、、
そのあと仕事に突然きっぱりと終止符をうった後は、<サラリーマン生活>からの呪縛がとけて、
今までとは住む世界の違う、職業の異なったフランス人やヨーロッパ各地の人たちとの
交流がふかまっていった。

 東京からパリへ、一泊二日でとんぼ返りで、翌日は香港へ、また帰国して二ユーヨークへ、
中東へとかのメリディアンチェーンの365日24時間休み無しの生活で体を壊したわたしは、
やめて二日後に入院して大きな手術をうけたのだった。
回復してからのわたしは心身共にとっても自由感を味わっていた。

 身内の会社で、しぜんに洋酒部の仕事にかかわっていったから、海外への旅では、
今までのホテル経営のレストランとパリの星レストランだけではなく、
地方のミシュランの☆のレストランにもどんどん訪れ始めた。
自然にレストランのシェフ、ソムリエさん達とも、造り手さん達とも親しくなっっていった。
ランブロワジーのピエール・ル・ムラック氏とその家族との交流も深くなった。

八十年代後半に設立された、美術とワイン関係のフランス女性の<ベル・バカント>の会のたった一人の
日本人として選ばれて、年四回の三つ星レストランでの勉強会&食事会に東京から出かけていた。
 
 政財界から退いたガンス夫妻が、サンテミリオンに朽ちたワインシャトーを購入したのもこの頃だった。
彼らは十年かけてパリとサンテミリオンを通って、シャトー・カデ・ボンを10年後の
サンテミリオンワイン格付けで見事、グランクリュクラッセに返り咲かせたときには、
お祝いの宴にかけつけた。
二つ目のシャトー・キュレ・ボンには、マルセリーヌが幼少の頃に訪れた安芸の宮島の、
あの朱色が忘れられなくて、彼女はなんとワイン醸造の場所の天上は朱色の漆喰のような木組みにして、
そのしたの銀色のステンレスタンクと見事な調和をなしていた。
ワイン蔵は紀元前からの岩山の通路、そしてうしろの高台のは、彫刻家ベルナール ヴネの
6メートルものCの字のオブジェをパリから運んでいた。
(後にこのシャトーは、シャネルに渡ることになる)

 お祝いには、宮島の朱色と作った現地の大工さんたち(彼らは招かれたことをとても喜んでいた)、
パリの社交界の面々、もちろん近隣のワインナリーオーたーやベトリュスのオーナーや、
そしてボルドーからは、フィリピーヌ・ロッチルドやピノ−夫人もかけつけていた。
ベルナールがジスカールデスタン時代の大蔵官僚的な人物だったので、政界の方も出席していて
(彼らは二十一世紀になって二つとも手放して、スイスに居城を移してしまったが、、、)

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  (サンテミリオングランクリュクラッセに返り咲きを祝って、オーナーのベルナールガンスに
自作のカードをたくさん送ったものは1996年)

http://keico.exblog.jp/5691687
2007.06.05 火曜日 まだ夜は明けない
旧友の手紙を運ぶ青い風

a0031363_2349502.jpg (翼をあれが巴里の灯か! 
ボルドーからパリへプライヴェートジェットで向かう折りに)

(彼らのプライヴェートジェットの操縦室から移したたった一枚の記念の写真からカードを創った)

 ある日のブログから
<フランスでの旅の思いでが走馬燈のように走る、、、
モンサンミッシェルへの日帰りの車の旅、ロワールのフランソワ一世のシュノンソー城、、、、、、
ヘリコプターから落ちそうになって撮ったヴォルヴィックの水源、
ムートンロッチルドの図書室でのディナー、マルセリーヌのプライベートジェットで通ったサンテミリオン、、、、、
ボルドーのオペラハウスの椿姫と、その後のギャラディナー、アランジュペ氏の顔が浮かぶ、、、
ブルゴーニュの幻の葡萄畑、シュバリエを受けた時の宣誓言はなんだったかな、、、>

http://keico.exblog.jp/737899
2004.07.25
父譲りで就眠儀式は読書なの

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( 数年後のMr. &Mrs. Bernard & Marceline GANS, スイスにて1995年)

a0031363_356746.jpg (ブログ初公開、、、、左がMarceline、右がKeiko~~~~~~。

スキャンイングは失敗ですね、、、)

下記ブログから
http://keico.exblog.jp/6126882
2007.09.06 木曜日 風雨強し、台風近し
アデュー ルチアーノ・パバロッティさん

 そして、この年1997年の最大の思いでは、ボルドーのオペラハウスで椿姫観劇とその後にフォワイエでの
真夜中から始まった夜会であった。
パリからはフランス社交界の主なる人々が集まり、ボルドーの主なるワインの造り手が集ったこの宴は
東京の女性にとって、驚きだった。
この時の写真は、ブログで初公開のギャラの時のスナップ。として上のブログの中にのせてある。
<左から、マルセリーヌ・ガンス、アラン・ジュペ元フランス首相、
マダム・フィリッピーヌ・ロッチルド、右は私で、この日のために誂えた椿の辻が花の着物で。
招待者全員が、シャネルの白い椿の布のブローチを胸に付けている>

http://keico.exblog.jp/10437146
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い
残る花散るを忘るるみぞれかな

 彼らの紹介で、美術界の方々とも親しくなって、パリのドゥルーオーはもとより、
ロンドンのサザビーズやクリスティのオークションに、時にはニューヨークにも足をのばしたのは
この第三の時代であった。

 1996年のオランダのマウリッツハイス美術館での、世界中から一同に集まったフェルメール特別展は
このLES BELLES BACCHANTES ベルバカントの仲間との旅だった。
朝の7時から特別に鑑賞することができた珠玉のフェルメールとの対面だった。
(この時の写真はポジのままで整理がついていない、、、)
http://keico.exblog.jp/6805711
2008年2月17日 日曜日 晴れ
「恋するフェルメール―36作品への旅 」

http://keico.exblog.jp/13140301
2011年7月25日 月曜日
日曜美術館<“手紙”が語るフェルメールの真実

 いや〜〜〜またまた真夜中に、思いでの旅にでて、遊びにふけってしまった。
ま、、、、時には人生の旅の整理として、こうして記録に残しておくのも悪くないかもしれない、、、、、

 今夜は神宮外苑の花火大会だった。
夕方からは花火の音がきこえていて、南の空の彼方がおかるくなるが、花火は見えなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

a0031363_23262518.jpg  (パルミラの夕陽、丑年か未年かしら?)


a0031363_2329129.jpg  (アレーナ・ディ・ヴェローナ、オペラは楽し)1995年)


1990年代の写真からのカードは、
http://keico.exblog.jp/10584167/
2010年5月8日 土曜日 曇り
Memoires du Voyage 旅の写真を絵はがきに

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
さて、この日のブログはどのカテゴリにいれようか、、、、?

More>>>おまけの一枚は?
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(1986.04.14 と写真にある。 
このうつろな顔はなんだろう、、、?
後で思うと、この頃は激務で体内には病魔がすくっていたに違いない、、、。

このころは年中着物をきていた。着物も帯も作家名は忘れたが、
白の塩瀬に、風神雷神を描いてもらったのだった。)



More>>>おまけの一枚は?
by pretty-bacchus | 2011-08-06 23:59 | ♪JourneyAbroad海外旅の思い | Trackback | Comments(8)

中東への出張☆回想のわが巴里の街 1980~1990
2010年5月26日 水曜日 曇り後雨

雨の朝簾のごとし緑濃く

 日の出が早くなって4時半をきった。
雨の朝は、カーテンを通して見える緑は簾のようだ。
瘤の木=アオギリ=もすっかり緑の葉が大きくなった。(写真は後で、、)

時差になってしまっているので、白々と明け初めしころにMacBookの蓋をしめようとしたとたんに、、、、
ピン〜〜とメール。
原さんからで、いつもオペラや音楽や話題のニュースを朝一で送ってくださるのだが、
今朝のニュースは、
<お!シャンゼリゼに畑出現?…農業振興アピール>
シャンゼリゼ大、通り一面が一夜にして麦畑に変わったのは見て撮ったことがあるが、今度は
小麦やブドウ、アブラナ、バナナなど100種以上の穀物、野菜、果物を植えた約8000個の箱や
樹木なのだそうだ。

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________________________________________________

 一眠りしたいので、ともかく床に着こうとおもっていたのに、今度はFさんからメール。
“アブダビメリディアンのご紹介をお願いします、、、、
え〜〜? 私はもう二十年も前にエールフランスもメリディアンも辞めています〜〜〜と、
返事をしたいところなのだが、そうしないのが私のバカさ加減だと思っているので、
(彼もそうおもっているだろうし、、、)内外の友人達にメールをしてから床に着いた。

 数時間寝て起きたときには新しい情報がいくつも入っていて、Fさんに転送。
Web時代の情報取得を彼も心得ているのだから、私にメールを打ったというのは普通の情報では
満足していなかったのだろう、、、、ちょっと楽しい情報も送ったりしていたら、
なんだか昔がなつかしくなって、私も中東へ飛びたくなってきた。

今の中東は様変わりをしていて、砂漠から空中都市がうまれているというから、
話題のエミレーツ航空のファーストクラスででも飛んでみたいな、、、、。
着陸のアナウンスはなんというのだろう、
NKさんの好きなあのフレーズ<当機は、まもなく最終着陸態勢に入ります。
恐れ入りますが お座席のシートベルトをしっかりとお締め下さい>は、アラビア語からはじまるのかしら、?

〜〜〜〜〜〜〜

 時は1980年代初め、普通でもあまり日本人がいかなかった中近東の仕事に、うら若き!細い
チャーミングな日本女性が、たった一人で空港におりたったのだから、それはそれは話題になった。
天までも驚いたのか、翌日は砂漠に何十年ぶりの大雨が降った。外気は50度!

最初の旅はアブダビメリディアンのオープニングの準備の仕事。
一応、黒のパンツスーツと黒のアタッシュと仕事モードでいったのに、空港に迎えもあったのに、
税関で小一時間もまたされることになったのだった。
すでにあったヒルトンホテルやインターコン、シェラトンなどを視察したり、
当時中東で日本料理屋さんで成功していた方々にもお話しを聞いて、私は数日の間に、
マーケッティングをすませた。
帰りの機のなかで数十枚のレポートを書いて、帰国後すぐにパリの本社に送付。
その結果というか、幸か不幸か次のプロジェクトの為に、また私はクウェイトやアラブ首長国連邦、
シャルジャなどにも行くことになったのだ、、、、、、、、。

アブダビメリディアンのオープニングでは、商社や現地の会社の方をお迎えしての
レセプションもいくつかこなした。
当時の中山大使、JALの支店長の有賀さん、商社の知人などなど素敵な男性方に助けられて、
役目をこなすことができたのかもしれない。
翌日の現地の新聞にも大きく写真入りで報道された。

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(右は外務省からの中山大使と左は日本航空の有賀支店長。私はこのレセプションの為に、
紺地に濃い渋朱色の切り替えの中に更紗模様を描いた着物をデザインして創った。
それにしてもなんと細かったか〜〜〜目をつぶってしまっていて残念、、、)


 若い頑丈な!女性を採用して、アブタビメリディアンに送ったのはその後まもなくだった。
他の航空会社やホテルチェーンも続いて女性駐在員を派遣しはじめたのはいうまでもなかった。
女性が世界にはばたいて仕事をしだした四半世紀前のことだった。
その後まもなく雇用における男女均等法が出来たのだ。

 しかし私の体と情熱は次第に萎み始めていた。
高山先生と体調を相談しながらぎりぎりまで仕事をつづけた。
60カ国にまで成長していたメリディアンチェーンの各ホテルへも足を運んだ。
前任者の男性の原さんでさえ、二年という約束で引き受けたこのハードなポジションを
私は6年間続けてしまった。
ある年の2月3日のプランダクションコメルシアル会議(年度始めのエールフランス本社支社、
子会社を含む戦略会議で、フランスの本社からも何人もおえらさんが出席していた年に一度の会議でであった)
で、私は突然の辞表をだして3月31日で仕事を辞めた。
その二日後に、人生二度目の大きな割腹手術を受けていた。

 お、、、、、朝の二つのメールで、またまた昔の事を思い出している。
過去ログをいろいろクリックして、なつかしさに浸っている。
これって、、、、年とったなによりの証拠にちがいない! 嗚呼!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜詳しくは、これをクリックしてみてください。
http://keico.exblog.jp/5485974
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu 2007.04.26

〜〜〜〜〜〜〜〜

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想い飛ぶ  リラの花咲く 巴里のころMemoires du Voyage-Paris 2007.05.22火曜日

http://keico.exblog.jp/5770820
夏至きたり 古の旅 はるかなる 2007.06.22 金曜日 

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<シリア、ヨルダン、レバノンへの旧約聖書への旅 2004.07.14
by pretty-bacchus | 2010-05-26 23:59 | ♢Journey海外82中東アブダビク | Trackback | Comments(12)