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東日本大震災から五年がたったのだ
2016年3月11日 金曜日 曇り後小雨

 あれから五年がたった。
<3.11>といわれるようになった東日本大震災。
2011年3月11日午後2時46分に発生した太平洋沖地震とそれに伴って発生した津波、
さらにこの地震によって福島第一原子力発電所事故が起こってしまったのだ。

 あの日の津波の映像は生々しく残っているし、今日もまた地震と津波、被災者の方々、
いまだに行方不明の方々のテレビのニュースを見ていて涙が絶え間なく続く、、、、。
今日の追悼式での天皇陛下お言葉に手を会わせて黙祷した。
 
https://www.nhk.or.jp/news/html/20160311/k10010439811000.html
天皇陛下 東日本大震災追悼式でのおことば

 何も出来ない自分がなさけなく、またあの日、当時九十一歳の母が三越に取り残されて一夜をすごしたが、
退院まもなかったわたしは救えにいけなかったのもいまだに悔やまれている。

 〜〜〜〜〜
https://www.youtube.com/watch?v=f2JGUL_mJqk
3,11 東日本大震災、当日夜のニュース 前編


 〜〜〜〜〜

 悶々と一日をすごして、夕方に出かけた。
タクシーを拾おうとしたその前にめずらしき車が止まった。
白いフィアット チンクエチェント55!

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(車には、ROMA と書かれていて、コロセウム、パンテオンのイラストが描かれていた。
お洒落な方がのっているのだろう、、、、)

 なつかしい〜〜〜! 四十五年前にエールフランスのパリの駐在に出たときに、数年乗ったことがある。
これに乗って暑い日も寒い日も、あの凍ったヴェルグラの高速を自分で運転してオルリー空港に通ったのだ。
パリの細い小径を乗り回して、地図上に一度通った道に赤い印をつけてパリの街を制覇すると思っていた頃が
とてもなつかしい、、、。

震災のニュースでの涙で腫れた目にまた涙が流れる。
決して辛かった思い出ではないのだが、なぜこんなにも今夜は涙がでるのだろう。
(シャンゼリゼ通りのエースフランスのオフィスに変わったときには、BMWに変わり、そしてその後は?)

 帰りの裏道でもまた赤い車をみつけた。これもチンクエチェントだったろう。
鎮魂のあとに出会った白と赤のフィアットに昔の事が偲ばれて、、、、、なんだか不思議な一夜だった。

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回想のわが巴里の街1973~1980
タグ:♥回想のわが巴里の街1973~1980 ( 9

by pretty-bacchus | 2016-03-11 23:58 | ♡Daily life日々の事など | Trackback | Comments(4)

ボーイング787の事故と半世紀弱の旅の思い出
2013年1月16日 水曜日 曇のち晴れ

 <全日空ボーイング787から煙 高松空港に緊急着陸  バッテリー不具合を表示>
のニュースは、
やはりと言う感じでほんとうに怖い!

機内から煙が発生し高松空港に緊急着陸し、乗客乗員計137人はエアーシューターで降りて全員無事というが、、、。
その後高松空港はしばらく空港を閉鎖したというがそういう問題ではないいような気がする。
操縦室の計器がバッテリーの不具合を示しパイロットが異臭を感じての措置としたら、
それは妥当だったろうが、、、。

 ボーイング787。ドリームライナーといわれるBoeing 787 Dreamlinerは、
ボーイング社の次世代中型ジェット旅客機として注目されて一昨年暮れから世界中の空に飛び始めた。
ボーイング757、767、777の後継の中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと飛行できなかった距離も
この787を使うことにより直行が可能になると話題になった二十一世紀の新航空機。
燃費効率に優れ、ANA、JALとも2011年に就航させこの機の導入を経営計画の柱に位置付けていた。
(もと先輩からもいろいろ情報が届いていた)

 この機種の特徴はいろいろあるだろうが、燃費を20%も節減できて大量輸送ができるのは、
新しいテクノロジーを使ってのことで、それは電子機器=コンピューター制御のハイテクのノウハウが
いろいろありそのことも話題となっていた。
それを操る人間=機長やコパイの訓練はどこまで行われたのだろうかと、友人達と話題になったこともあった。
すでに一年前には、友人からのメールで
<Tuesday, February 07, 2012 7:45 AM
Subject: 部品不具合発覚に納期ベタ遅れ 新機種ボーイング787にトラブル多発 (J-CASTニュース) - >

 そのボーイング787が暴れ出したのだ。
今の旅では飛行機は絶対に落ちないと言われているが、もし電子機器が全て動かなくなり計器が全て作動しなくなったら、
どんなふうに飛行してどんな方法で空港に入り着陸を成功させるのだろうか?
考えただけでも怖ろしいが、そんなことを心配して飛行機に乗る人は皆無なのだろう。

 去年のアメリカのニュースで、いくつかの事故が話題になっていたし、日本でも一、二のニュースで
小さな問題を報じていたし、先週もボストンでJALの便が問題を起こしたとがあったように記憶している。
それが今日、羽田に向かっているANA機が、機体の異常を知らせるメッセージが出て高松空港に緊急着陸。
電気室の一部に漏れがあり、乗客はエアーシューターで高松空港の地上に降りたという。
その後の調べでバッテリーから電解液が漏れていることが確認されたというが、
もはや初期不良とはいえず早かれ遅かれ起きる事故だったのだろう。

今回は機長の的確な判断で乗客乗員が全員ご無事で、事故が大事にいたらなくて本当によかった。
日本のいくつもの優良会社のパーツが多く使われているこの機種だが、原因を徹底究明して
一刻も早い解決をのぞみたいものだ。

 飛行機事故は、新しいテクノロジーが開発されて機種の名前が変わっていくエポックの時期に
多く起こっているような気がする。
ボーイング関係の飛行機事故で忘れられないのは、1966年の2月、3月に起こった連続航空機事故。
1966年2月にはボーイング727-100型機の全日空羽田沖墜落事故で133人全員が死亡し
単独機として
当時世界最悪の事故となっていた。
そしてこの年この後にはボーイング707の航空機事故が相次いで発生していたのだ。

カナダ太平洋航空のダグラスDC-8が羽田空港の濃霧のなか着陸に失敗して大破炎上した
着陸失敗事故が起こったのは三月。
“着陸失敗、炎上だ”という声に事務所を飛び出してはるか向こうに火の柱をみたのを覚えている。

(その頃私は羽田のエールフランスの事務所で働き始めたばかりだった。
都心からの高速道路ができたばかりの頃で、その開通にはブルーバードファンシーデラックスで
自分でハンドルを握って一番乗りをしたものでした)

 (その頃の制服姿の写真は
http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇りのブログへ
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々

http://keico.exblog.jp/10956716/
2010年7月10日 土曜日 曇り後晴れ
曇天にベランダ彩る黒揚羽

 そして翌日の1966年3月5日に発生した、英国海外航空(BOAC)機の空中分解の航空事故。
世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解したもので、
乗員乗客全員が犠牲になる大惨事だった。 
(その時私はオフの日で、橋の上の車の中でこのニュースを聞いていたのだ)
羽田空港が濃霧で閉鎖されたため、福岡空港へとダイバートしていて羽田空港への到着は一日遅れの
911便は20時間以上の遅れで離陸したのだ。

英国海外航空機空中分解事故
http://ja.wikipedia.org/wiki/英国海外航空機空中分解事故
このウィキペディアにその惨事の模様が詳しく載っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜
<機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としないものの、
ホノルルから羽田へのフライトは濃霧(前日のカナダ太平洋航空機事故の一因となった)による
ダイバートにより福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田に再度向かったため、
出発が20時間以上遅れていたことが判明している。
そうした点から下記の要因が推定されている。
飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかった。
アメリカ人の団体観光客が多かったため、乗客に富士山を見せたいと思った>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この年にはこの後、日本航空羽田空港墜落事故、全日空松山沖墜落事故が続いたのであった。

 それなのに、その羽田空港から、私はこの年の初夏にボーイング707で南回りで、
三十六時間ほどかかって巴里への旅に向かったのだ。

http://keico.exblog.jp/14105309/
2011年12月4日 日曜日のブログへ
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

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エールフランスのパリ>東京路線一番機が羽田空港に到着したのは1952年11月26日という記録があり、
(私はまだ小学生だった)ボーイング707が南回りで経由でパリへと飛んだのは1961年で、
東京 - 香港 - バンコク - カルカッタ - カラチ - クウェート - カイロ - ローマ - フランクフルト -
パリという南回りのエールフランス便だった。
その頃は飛行機は限られた人たちの旅への手段だったのだ。


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1960年には、北回り便(北極圏飛行ルート)に、B707ジェット機が就航。
所要時間はさらに短縮されて18時間になった。
その後大阪万博の年の1970年1月には、東京-パリ間にモスクワ経由のシベリア線が開設されて、
所要時間14時間30分となった。


1972年4月には、ボーイング747が東京-パリ間に就航し、いよいよ大量輸送時代が始まり、
日本からのグループがパリを訪れるようになり始めたのだった。
東京-パリ間にノンストップ便就航したのは1986年。所要時間12時間と短縮されて現在にいたっている。




http://keico.exblog.jp/14339545/
平成24年1月4日(水) 晴
前世紀のエールフランスの食器と天馬



http://keico.exblog.jp/14105309/
詳しくは2011年12月4日 日曜日のブログに
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

 その頃、私のパリの駐在員時代の1970年代初めには航空機の事故に加えて、
アラブゲリラがしかけた爆弾でパンナメリカン機が空港で破壊されたり、
貨物室の扉の閉めわすれたエアーインディア機が離陸直後にルソー眠るエルムノンヴィルの林に脱落など航空機事故が相次いだ。
(この事故では知人のご子息が亡くなっている。私が最初で最後にあってから数時間のことだったのだ)

JALのモスクワ空港シェレメーチエヴォでの離陸直後墜落事故が1972年(昭和47年)11月だった。
その時期にも沢山の飛行機事故が起こっていたのだった。

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その間に 21 january 1976, Air France introduced the supersonic Concorde !

 そして1985年には、あの金属疲労が原因での、あの御巣鷹山での大惨事。
http://keico.exblog.jp/8804714/
| 2009-08-12
日航ジャンボ機墜落事故から、今日でで丸24年

 しかし2009年には、機長の素晴らしい判断で厳冬のハドソン川に不時着したが。
全員が無事という事故もおきたのだった。
http://keico.exblog.jp/7821613
米旅客機がハドソン川に不時着水 乗客乗員155人無事に感涙 2009年1月16日 金曜日

http://www.youtube.com/watch?v=aF3o2nzAoEY&feature=relmfu
Air France: la flotte d'hier et d'aujourd'hui [fr]
郵便船の頃のプロペラ機から現代までの飛行の映像があって楽しい。



Air France Boeing 777-300ER [en]


 私自身も四十数年らい数百回という乗客としての旅の経験の中でなんども事故に遭遇しているが、
こうして元気に今を送っているのはきっと奇跡に近いことなのだろう。
60年代の尾翼が燃えてのアンカレッジ近くの米軍空港への緊急着陸、
70年代初めには搭乗した機にアラブゲリラが仕掛けた爆弾が不発に終わったローマでの事故。
そして落雷を受けてのテルアビブ空港への片翼着陸、
80年代の、足が出ないで何度か離着陸を繰り返し72時間もヴァンクーヴァーの空港に缶詰にされたスキーツアー。
82年のあの細い香港のカイタック空港の滑走路が一瞬間見えて消えた時のこと等など。
どれも熟練の機長による活躍で大事に至らなかったったという。

http://keico.exblog.jp/6042978
2007.08.23 木曜日 事故の思い出

http://keico.exblog.jp/7072885
2008年5月3日、旅の記憶にテルアビブのこと

 飛行機事故はあとをたたないが、最近では現代機器により飛行機は落ちないとまでいわれるように
なってきたが、その精密機器を操るのは<人間>なのだ。
とても怖ろしい時代になってしまったのかもしれない。

 飛行機の思い出はあまたあるが、一緒に仕事をした忘れられない多くの人たちの中に大竹さんもいる。
その当時整備部長であった大竹さんは、トラフィックとかカーゴとかの部長さんと同じように
寡黙で仕事が出来る方だった。
おそらくまだ週に数便だけの巴里>東京>巴里の就航だったろうが、パリからの到着便の時には、
事務所や整備場で待つのではなく、彼はいつも飛行機の着くランウェイでじっと到着を待っていた。
それからが整備の仕事であるのに、彼はいつも真剣に機の着地を見守っていた。

まじめな方だなと思っていたが、東京ではあまりお話しする機会がなかった彼と、
ある日パリのスタージュ(トレーニング)のおりに偶然お話しをする機会があった。
その事を私が話すと、彼は
“今の飛行機で一番危険と思うのはアテリサージュなのです”
“アテリサージュ?” その時は私はまだこのフランス語すら知らず、離陸がデコラージュ、
着陸がアテリサージュだと覚えたのはこの時だった。
そして彼は、“到着後、限られた時間で整備をしっかりしても、飛行中にいろいろ起きてくるでしょう。
飛行を終えて最後に無事に空港の土をふむアテリサージュまでが整備士の仕事なのです。
私はいつも祈りながら到着する機を見ているのです”
とつとつと語った彼の言葉を、もう四十年も前のことなのに、わたしはなぜかはっきりと覚えている。
まだお元気でいらっしゃるのだろうか、、、。
~~~~~~
 飛行機の中から撮った写真は沢山あるのに、飛行機を撮った写真は意外に少なく、
かろうじて707と747はこのブログにあるが、787をとったものは皆無。

http://keico.exblog.jp/5914771/
写真の整理で 旅の記憶を ひもといて

a0031363_314343.jpg (雨の中に落とされ忘れられたバゲッジはパリの空港?)

http://keico.exblog.jp/15505582/
2012年6月5日 火曜日 曇り
初代のデジカメFUJI FinePix4700Zで撮ったイタリアの旅

a0031363_223964.jpg (2000.12.09 pm2:28 パリ>ミラノの便の搭乗口で、、、)


http://keico.exblog.jp/14228306/
2011年12月20日 火曜日 雨上がり その二 機内にて 
☆回想のわが巴里の街〜帰りの機内にて

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 静かな日本の風景や空港に離着陸する<飛行機>を秀逸なタッチでお撮りになるノリさんが、
今日のブログで787を載せていらした。
 <事故が大事に至らなくて、乗客乗員のみなさんがご無事で本当によかったです>と祈りを込めて、
お送りいただいた直近の<空の夢の787>をアップさせていただきました。

日本もアメリカも原因がわかるまで飛行禁止にしたので、
しばらくはこの雄姿をみることができないのでしょう、、、。
ノリさんありがとうございました。

http://dukesaloon.exblog.jp/17636470/
duke days
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 (クリックして大きくするとANAと787がよく見えます)


 〜〜〜〜〜〜
 両親の時代から現代まで、ブルーベリーやiPhoneでのチェックインまで,
ティケットの歴史がおもしろい。
L'histoire du billet de 1933 à 2012 - The history of the air ticket from 1933 to 2012
http://www.youtube.com/watch?v=E7VAbSqywiY&feature=relmfu


~~~~~~~ いろいろ思い出  ~~
~~~~~ 
http://keico.exblog.jp/1745419/
2004年 6月 21日 月曜日
ロマネスクへの旅の誘い

http://keico.exblog.jp/1596968/
2005.01.29
空元気の麗人と いわれて、、、

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2007.04.26
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu

http://keico.exblog.jp/5626037/2007.05.22火曜日 晴れ
想い飛ぶリラの花咲く巴里のころMemoires du Voyage-Paris

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2007年12月12日 水曜日 晴れ後曇
フランス大使館の昼食会へのお招き

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2007.08.23 木曜日  青い朝顔は五輪かな
泳ぎ切り 若者眩し 夏の宵

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2008年5月3日 土曜日 雨のち曇りのち少し晴れ 今日は三回目
旅の記憶にーーテルアビブ

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2009年1月16日 金曜日
米旅客機がハドソン川に不時着水 乗客乗員155人無事に感涙

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2010年11月4日 木曜日 晴れ

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平成22年7月05日(月) 晴れ
炎天のローマの想い時越えて

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2011年6月15日 水曜日 曇り
梅雨の間にいにしえのふみそっと見て>>梅雨深しいにしえのふみそっと見る

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2011年6月21日 火曜日 晴れたり曇った
巴里の夢回転木馬ごとごとと

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2011年8月1日 月曜日 曇り
思い出の昔のパリを簡易スキャニングして
1993年の銀塩を何枚か

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2011年8月6日 土曜日 晴
1980年代後半からの旅の思い出いろいろ

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第三十回の近代オリンピック・2012ロンドンが終わった





More>>ティケットの歴史がおもしろい。
by pretty-bacchus | 2013-01-16 23:58 | ♪JourneyAbroad海外旅の思い | Trackback | Comments(5)

1977年<AF Japan 25th Anniversary>頃の思い出
2012年11月18日 日曜日 晴れ

 昨日の雨で洗われた葉がますます色づき風に揺れてとてもきれいな朝。
ゆっくりとウィークエンドを過ごすことができた。

 京都からヨウコさんがでてらして、久しぶりにゆっくりとお食事をご一緒できた。
来年の春に開講するふくみ先生とお二人の芸術学校のお話しもいろいろうかがうことができた。
来年は京都通いが多くなりそうな予感?

〜〜〜〜〜
 エールフランス時代の上役だったHさんが、ピカサでエールフランスの記録の更新なさった。
<エールフランスジャパン 二十五周年アニヴァーサリー>は、
1977年、今から三十五年前の時代。
成田に新東京国際空港が開港する一年前。
私はパリの駐在から帰国して数年たっていた頃だった。
東京からパリはまだ直行便がなくてアンカレッジ経由かモスクワ経由のシベリア線の頃。
1972年4月にはB747が東京-パリ間に就航しいよいよ大量輸送時代が始まり、
日本からのグループがパリを訪れるようになり始めて数年がたっていた頃だった。

http://keico.exblog.jp/14105309/
2011年12月4日 日曜日    <<< (クリックしてください。)
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

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 その頃は羽田と東京に事務所があって、街の事務所は日比谷の三井ビルの一階二階だった。
人数は数十人だったろう。
二十五周年の記念の冊子を作るために各部署の写真撮影があったのを覚えている。
]


a0031363_2315189.jpg  なつかしい集合写真だが、あまりはっきりせずに残念。
記録としてブログに載せておきましょう。

a0031363_2315509.png  (前列右から二人目がワタシ)

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そして盛大に行われた二十五周年のパーティーでは、私は自分でデザインした着物を着ての出席だった。
(ハンドバックは着物ように特製のエルメスのクロコ)

パリ時代に着物をきたのはほんの数回だったが、帰国してからは着物のことが多くなった。
お茶のお稽古に精進したのもこの頃からだった。


〜〜〜〜〜
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その十年ほど前に入社の頃に、クリスチャンディールの濃紺のユニフォームを着て、羽田空港で。


http://keico.exblog.jp/12897874/
2011年6月15日 水曜日 曇り
梅雨の間にいにしえのふみそっと見て>>梅雨深しいにしえのふみそっと見る

http://keico.exblog.jp/14162322/
2011年12月12日 月曜日 その一  雨のち曇りのち晴れそして、、、
☆回想のわが巴里の街1973~1980 =旅と滞在ホテル





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by pretty-bacchus | 2012-11-18 23:58 | ♦JourneyAbroad海外1970 | Trackback | Comments(8)

☆回想のわが巴里の街 ~ 我が人生を振り返って
2011年12月20日 火曜日 雨 
我が人生を振り返ってa0031363_21252852.gif

☆回想のわが巴里の街1965~1973
♥回想のわが巴里の街1973~1980
♥回想のわが巴里の街1980~1990
☆回想のわが巴里の街1990~2000

 最後の日の夜明けを迎えている。
荷物の整理が途中のまま、荷造りをして、あと数時間でも横になりたいのに、目がさえてMacに向かっている冬の巴里。

思えば、八十年代後半からの最晩の二十世紀後半の十数年が、私にとっては最後の充実した第三の人生だったに違いない。
第一が生まれたときから学校を卒業するまでの二十二年、
第二は、そのあとのエールフランス&メリディアンチェーンでの二十三年、
そしてそれからの十数年の五十代最終までがわたしの第三の人生。
それぞれに充実した日々であったが、この第三が一番自由に羽ばたいていたように思われる。

第一の時代のキーワードはやはり、自然との交わり、勉学、教育だろうか、、、。
第二の時代は、新しい事への挑戦、そして仕事、海外、だろうか、、、、。
そして第三は、それらをすべて背負っての新しい世界への飛躍かな、、、、。

 外国人との交流を思い出せば、
幼稚園から中学まで、日曜学校の神父様と父や叔父の知り合いの外国人、
十代後半から二十代前半の大学時代は神父様と先生方、
卒業後すぐにエールフランス入社だから、会社のフランス人上司
二十代後半から三十代はパリの駐在員としてドップリと会社のフランス人たち、街の人たち、
そしてジャクリーヌとその家族、美容師のF、近くのレストランのオーナー達、家主くらいかな、、、。

 三十代後半から四十代前半は、メリディアンチェーン日本代表として
エールフランス本社のおえらさんや、メリディアンチェーンの社長&スタッフ、
そしてホテルがあった六十カ国のGMたち、と、すでにかなりの人たちとお目にかかっていたが、、、、
そのあと仕事に突然きっぱりと終止符をうった後は、<サラリーマン生活>からの呪縛がとけて、
今までとは住む世界の違う、職業の異なったフランス人やヨーロッパ各地の人たちとの交流がふかまっていった。

 東京からパリへ、一泊二日でとんぼ返りで、翌日は香港へ、また帰国して二ユーヨークへ、
中東へとかのメリディアンチェーンの365日24時間休み無しの生活で体を壊したわたしは、
やめて二日後に入院して大きな手術をうけたのだった。
回復してからのわたしは心身共にとっても自由感を味わっていた。

 身内の会社で、しぜんに洋酒部の仕事にかかわっていったから、海外への旅では、
今までのホテル経営のレストランとパリの星レストランだけではなく、
地方のミシュランの☆のレストランにもどんどん訪れ始めた。
自然にレストランのシェフ、ソムリエさん達とも、造り手さん達とも親しくなっっていった。
ランブロワジーのピエール・ル・ムラック氏とその家族との交流も深くなった。

 八十年代後半に設立された、美術とワイン関係のフランス女性の<ベル・バカント>の会の
たった一人の日本人として選ばれて、年四回の三つ星レストランでの勉強会&食事会に東京から出かけていた。
日本ではお目にかかれなかった、絵画や美術品に近く接して、オークションハウスに通ったのも
この時期だった。

 政財界から退いたガンス夫妻が、サンテミリオンに朽ちたワインシャトーを購入したのもこの頃だった。
彼らは十年かけてパリとサンテミリオンを通って、シャトー・カデ・ボンを10年後のサンテミリオンワイン格付けで見事、
グランクリュクラッセに返り咲かせたときには、お祝いの宴にかけつけた。
二つ目のシャトー・キュレ・ボンには、マルセリーヌが幼少の頃に訪れた安芸の宮島の、
あの朱色が忘れられなくて、彼女はなんとワイン醸造の場所の天上は朱色の漆喰のような木組みにして、
そのしたの銀色のステンレスタンクと見事な調和をなしていた。
ワイン蔵は紀元前からの岩山の通路、そしてうしろの高台のは、彫刻家ベルナール ヴネの
6メートルものの字のオブジェをパリから運んでいた。
(後にこのシャトーは、シャネルに渡ることになる)

お祝いには、宮島の朱色と作った現地の大工さんたち(彼らは招かれたことをとても喜んでいた)、
パリの社交界の面々、もちろん近隣のワインナリーオーたーやベトリュスのオーナーや、
そしてボルドーからは、フィリピーヌ・ロッチルドやピノ−夫人もかけつけていた。
ベルナールがジスカールデスタン時代の大蔵官僚的な人物だったので、政界の方も出席していて
(彼らは二十一世紀になって二つとも手放して、スイスに居城を移してしまったが、、、)

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  (サンテミリオングランクリュクラッセに返り咲きを祝って、オーナーのベルナールガンスに
自作のカードをたくさん送ったものは1996年)

http://keico.exblog.jp/5691687
2007.06.05 火曜日 まだ夜は明けない
旧友の手紙を運ぶ青い風

a0031363_2349502.jpg (翼をあれが巴里の灯か! 
ボルドーからパリへプライヴェートジェットで向かう折りに)

(彼らのプライヴェートジェットの操縦室から移したたった一枚の記念の写真からカードを創った)

 ある日のブログから
<フランスでの旅の思いでが走馬燈のように走る、、、
モンサンミッシェルへの日帰りの車の旅、ロワールのフランソワ一世のシュノンソー城、、、、、、
ヘリコプターから落ちそうになって撮ったヴォルヴィックの水源、
ムートンロッチルドの図書室でのディナー、マルセリーヌのプライベートジェットで通ったサンテミリオン、、、、、
ボルドーのオペラハウスの椿姫と、その後のギャラディナー、アランジュペ氏の顔が浮かぶ、、、
ブルゴーニュの幻の葡萄畑、シュバリエを受けた時の宣誓言はなんだったかな、、、>

http://keico.exblog.jp/737899
2004.07.25
父譲りで就眠儀式は読書なの

a0031363_6202294.jpg
( 数年後のMr. &Mrs. Bernard & Marceline GANS, スイスにて1995年)

a0031363_356746.jpg 、、、、左がMarceline、右がKeiko~~~~~~。
スキャンイングは失敗ですね、、、)

下記ブログから
http://keico.exblog.jp/6126882
2007.09.06 木曜日 風雨強し、台風近し
アデュー ルチアーノ・パバロッティさん

 そして、この年1997年の最大の思いでは、ボルドーのオペラハウスで椿姫観劇とその後にフォワイエでの
真夜中から始まった夜会であった。
パリからはフランス社交界の主なる人々が集まり、ボルドーの主なるワインの造り手が集ったこの宴は
東京の女性にとって、驚きだった。
この時の写真は、ギャラの時のスナップとして上のブログの中にのせてある。
<左から、マルセリーヌ・ガンス、アラン・ジュペ元フランス首相、
マダム・フィリッピーヌ・ロッチルド、右は私で、この日のために誂えた椿の辻が花の着物で。
招待者全員が、シャネルの白い椿の布のブローチを胸に付けている>

http://keico.exblog.jp/10437146
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い
残る花散るを忘るるみぞれかな

 彼らの紹介で、美術界の方々とも親しくなって、パリのドゥルーオーはもとより、
ロンドンのサザビーズやクリスティのオークションに、時にはニューヨークにも足をのばしたのは
この第三の時代であった。

 1996年のオランダのマウリッツハイス美術館での、世界中から一同に集まったフェルメール特別展は
このLES BELLES BACCHANTES ベルバカントの仲間との旅だった。
朝の7時から特別に鑑賞することができた珠玉のフェルメールとの対面だった。
(この時の写真はポジのままで整理がついていない、、、)
http://keico.exblog.jp/6805711
2008年2月17日 日曜日 晴れ
「恋するフェルメール―36作品への旅 」

http://keico.exblog.jp/13140301
2011年7月25日 月曜日
日曜美術館<“手紙”が語るフェルメールの真実

そして今雨の巴里で、
☆回想のわが巴里の街2000~2010を振り返り、
☆回想のわが巴里の街2010~2020への期待を考えている。

>>>>続く、、、、

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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そして今日の巴里、
20 December 2011 Paris


 最後の巴里も雨のパリ。
夕食のあとオペラ通りを歩いて帰り最後の一枚を!
あのブリジットヴァルどーが微笑んでいた。
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by pretty-bacchus | 2011-12-20 03:55 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(0)

☆回想のわが巴里の街1973~1980 -シャネルとラデュレ
2011年12月12日 月曜日 その二
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☆回想のわが巴里の街1973~1980 ーオートクチュール

 この間は巴里の四つ星ホテルをいろいろ泊まっていた頃だった。
ホテルリッツはFさんご家族との定宿となっていた。
ヴァンドーム広場の表玄関から入るって、細いアーケードの廊下を通って右にまがると、
そこはリッツのヘミングウェイ−バーで、Rue Cambonに面していて、カンボン通りに抜けることができる。
知る人ぞ知る内部の道。
ダイアナ王妃は、この廊下を通って裏口にでてパパラッチを逃れたのだが、
まもなく事故にあってしまったのだ、、、嗚呼。

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(08 December 2011 Paris, ホテルリッツの裏側出口、この右側の扉からダイアナさんの車はでていったという、、、)


(そういえば、まだ今回はホテルリッツの表側のヴァンドーム広場にいっていないな、、、)

a0031363_16302659.jpg(08 December 2011 Paris,
rue Cambon, Chanel)


 小さなバーでお茶も飲めたので、泊まっていないときも時々いったりしていた。
リューカンボンの9番地にはシャネルの本店がある。
Jの友人がブティックの売り子さんをしていたので、自然に行くようになっていた。
マダムシャネルはまだ生存してらした頃だろう。
シャネルはカンボン通りに中頃の右側、サントノーレ通りにでる少し前、、、
いつも二人の男性門番が目を光らせている。

格調高いrue cambonののシャネル本店の二階では時々、オートクチュールのショーが催されていた。
パリに住んで仕事をしているときは、そんな時間も余裕も無かったが、帰国した後、
仕事を兼ねてのパリ通いの二十数年の間に、何度か招かれたことがあった。
懐かしいな〜〜〜〜 
一昨日通ってみたが、入る気になれなかったのはきっと時代が変わってしまったからだったろう、、、。

 セーヌ川を背にして、オペラ通りを進みオペラ座にぶつかったら、左に曲るとブールバール・デ・カプシーヌ。
二つ目の信号の五交ろうを右に入ると、マリアカラスが住んでいたアパルトマン。
斜め前方左がリューカンボン。そのすぐ角は、ホテルリッツの裏の入り口で、
小さな素敵なバー、それがヘミングウェイバー、今回は行く機会がないだろう、、、。
あの渋いバーマンはまだ元気にしているのかしら、、、。

 サントノーレ通りを右に曲がって少しあるくと左がコンドルド広場、右がマドレーヌ寺院で、
その角の二件目にティーサロンのラデュレ。
階段を上がった二階の角が私の好きな席、
いつもテオレとタルトーポム(アップルパイ)で本を読んだりしていました、、、、
車で遠出の時にお願いしたテイクアウトのサンドウィッチの美味しかったこと!
ここのアップルパイと紅茶が美味しくて、ここでいつも一休み、、、でも今回は満席ではいれませんでした。
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  (Parsi 07 December 2011)

 家の近くのダロワイヨーでは、朝のパンヲショコラが美味しかったな、、、
今は無い、シャンゼリゼの凱旋門近くのドラッグストアーのクロワッサンも美味だった、、、、。
少し下がったフーケは、お天気の良い日は赤いテントの下でお茶〜〜〜!
ラデュレ、ダロワイヨ、ジャンポール・エヴァン、ピエール・エルメ、フォション、、、
(太るわけですね〜〜)

 駐在中にはいかれなかったパリやフランスのミシュランの☆付きレストランをたべあるくようになったのもこの頃でした。

 そして1980年ごろには、凱旋門からほど近い、友人ジャクリーヌのアパルトマンに住むことになったのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜

 そして今日は、滞在時にはなかったお店へいざいかん!
サンジェルマンでプレのピエールエルメさんのお店へ、、、、と思っていたのだが、体調今一でマドレーヌのあたりで
お茶を濁してしまった、、、、。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

PIERRE HERME イスパハン ~Ispahan~

「スイーツ界のピカソ」と言われるピエール・エルメ氏の創造性溢れるパリスイーツ。
彼は、アルザス地方のパティシェの家系に生まれ、15歳で「ルノートル」、24歳で「フォション」の
シェフ・パティシェになり、その後「ラデュレ」に移り注目をあつめたそうです。

そして2001年、パリのサンジェルマンデプレに自店をオープンさせ、以来世界のパティスリー界のトップを走り続けています。

カラフルなマカロンはフワフワでサックサク〜〜!
そして何と言っても、ピンク色の「イスパハン(Ispahan)」がいつも話題をさらっています。
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イスファハンっていったらイランのあのブルーを思い浮かべてしまいますが、それお甘みシリーズに用いてピンクとは?
イスパハンとは、ダマスクローズの一種でピンクの薔薇の名前なおだそうです。

その薔薇をとじ込めたようなイスパハンというお菓子は、
ピンク色のローズペタルマカロンに、ローズペタル味のクリーム、ライチ、ラズベリーを挟んだお菓子。
トップにのった薔薇の花びらに飴の水滴がとろ〜りと光っていて、、、。

バラの味のマカロンの間にはフランボワーズがぐるりと挟まれ、中にはライチがしのばせてあり、
口に含む前から、バラの香りがふわ〜と漂い、やさしいライチの風味とフランボワーズの酸味が、
なんともいえぬバランスで口いっぱいに広がり、、、、まさに絶品スイーツ!

More>>ブログ内いろいろ
by pretty-bacchus | 2011-12-12 23:59 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(5)

☆回想のわが巴里の街1973~1980 =旅と滞在ホテル
2011年12月12日 月曜日 その一  雨のち曇りのち晴れそして、、、a0031363_21252852.gif

☆回想のわが巴里の街1973~1980 ー

 巴里の駐在を終えて帰国したのは1973年春だった。
日本は先進国の仲間入りをしはじめていた頃だった。

 すでに帰国していた連れあいは、前の商社を辞めてから四年のブランクのあとに新しい会社を設立していた。
主にスポーツ用品や車、革製品などを扱う貿易会社で、ヨーロッパ文化の色濃い品物やワインも入っていた。

 帰国後の住宅は、麹町町、池田山と二転三転して、最終的に神宮前のT作曲家が住んでいたマンションを
家具付きのまま譲り受けた。

 この7~8年の間は、ほんとうによく旅をした。
帰国後すぐには、タヒチへの第一便が就航したのは1973年で、モームのあの島をトランジットしてタヒチへの旅となった。
時差の為に私はこの年の誕生日を二度お祝いしてもらった。
モーレア、ボラボラの思いではいろいろ深い。

a0031363_17215942.jpg 





(1973年かな? タヒチ就航の第一便でタヒチに飛んだ、、、駐在代表のHさんと
ボラボラのバリハイの山をバックに)

a0031363_17245239.jpg (エールフランスの日本就航二十五周年記念パーティーで、自分のデザインのモダンな着物を着て、、、


な、、、なんとバックは黒のクロコで、エルメスで着物ようにこぶりに特注したものです。こんな時代もあったのだなって、感無量です!)

これも1970年代半ばだが何年だったかしら?)



http://keico.exblog.jp/10987807/
2010年7月15日 木曜日 曇り
誕生日に宇宙よ友よありがとう!

http://keico.exblog.jp/12897874/
2011年6月15日 水曜日 のブログへ
タヒチの写真をアップしたブログ


 ヴァリッグ航空のインターライン招待旅行での、リオデジャネイロ、ブラジリア、
イグアスの滝などのブラジル旅行、ブエノスアイレス。
http://keico.exblog.jp/8013747/
2009年2月28日 土曜日 曇り
旅の記憶に浸って>リオデジャネイロ、サンパウロ、ブラジリア

 アエロフロートソヴィエト航空の特別旅行で、冬のモスクワ、赤の広場、レニングラード、
南のソチなど主な都を訪ねることができた。

 この頃は、巴里への仕事も休暇も、パリの話題のホテルや四つ星を泊まり歩いた。
欧州の歴史と文化をあじわうようにという、父のアドヴァイスもあったかもしれない。
一流ホテルですごすある種の緊張感、細々とさらりと隠されてお迎えの心、ギャルソンのもてなし方と、
それに応えてそっと手渡すチップの仕方、そしてなんといってもコンシエルジュの使い方(頼み方)、エトセトラ、、、。
パリのホテルは、ホテルリッツのヘミングウェイバー、ホテルドゥクリヨン、ブリストル、ムーリス、
プラザアテネ、
ジョルジュサンク(今のフォーシーズン)などなど。
ロンドンでも、チューリッヒでも、ローマでも、、、それは旅の醍醐味ともなり、快適なMUSTの経験となった。
 そして、駐在時代にはあまり行かれなかった、シャネルやエルメスやイブサンローランなどの
メゾンにいくようになったのも、この頃からだった、

 帰国後の仕事は予約課に配属されたが、広報も営業も、時には巴里の駐在員が休暇の時は、
その臨時要員として送られたりしてマルティにいろいろさせられていたが、むしろそれを楽しんでいたかもしれない。
やがて会社では大きな組合問題が起こって、醜い争いと発展していき、私は会社側と組合側の板挟みになって
ほとほと神経がまいっていった。

 その頃、一世を風靡していた山口百恵ちゃんが突然の引退結婚宣言をした。
1980年10月5日での日本武道館であった。
百恵ちゃんと友和さんは、友人のTさんと親しかったので、何度か一緒に食事をしたり飲んだり、
また高輪の住まいにおじゃましたこともあったりしていた。

http://keico.exblog.jp/2090577/
2005.07.12のブログ
山口百恵ちゃんとの思い出

あの若い彼女が結婚を機にいさぎよく辞めたニュースは、百恵ファンを狂乱させていた。
私も少なからず考えされられた。
そしてこの数ヶ月後に、私は突然辞表を出したのだった。

まさかそれが次のメリディアンチェーンでの、すさまじく忙しく世界を飛び回る仕事に結びつくとは思いもしなかった。


>>>☆回想のわが巴里の街1980~1990へ続く、、、

~~~~~~~~~

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そして今日の巴里、
12 December 2011 Paris

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HÔTEL LE BRISTOL PARIS

 そして今のパリのホテルは、オペラ座近くの三つ星Rホテル。
ギャルソンもコンシエルジュデスクもないが、レセプションがすべてをしてくれて、
ファムドゥメナージュも荷物のおじさんもとってもサンパで心がなごむ。
これが今の私の身の丈に合った<巴里の宿>!

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 (窓からはヴァンドーム広場のあのナポレオンの塔もコンコルド広場のオベリスクも見えないが、、、、、通りの向こうの建物だけがみえるだけ、
でも上を見れば青空が!)

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~~
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by pretty-bacchus | 2011-12-12 23:56 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(4)

中東への出張☆回想のわが巴里の街 1980~1990
2010年5月26日 水曜日 曇り後雨

雨の朝簾のごとし緑濃く

 日の出が早くなって4時半をきった。
雨の朝は、カーテンを通して見える緑は簾のようだ。
瘤の木=アオギリ=もすっかり緑の葉が大きくなった。(写真は後で、、)

時差になってしまっているので、白々と明け初めしころにMacBookの蓋をしめようとしたとたんに、、、、
ピン〜〜とメール。
原さんからで、いつもオペラや音楽や話題のニュースを朝一で送ってくださるのだが、
今朝のニュースは、
<お!シャンゼリゼに畑出現?…農業振興アピール>
シャンゼリゼ大、通り一面が一夜にして麦畑に変わったのは見て撮ったことがあるが、今度は
小麦やブドウ、アブラナ、バナナなど100種以上の穀物、野菜、果物を植えた約8000個の箱や
樹木なのだそうだ。

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________________________________________________

 一眠りしたいので、ともかく床に着こうとおもっていたのに、今度はFさんからメール。
“アブダビメリディアンのご紹介をお願いします、、、、
え〜〜? 私はもう二十年も前にエールフランスもメリディアンも辞めています〜〜〜と、
返事をしたいところなのだが、そうしないのが私のバカさ加減だと思っているので、
(彼もそうおもっているだろうし、、、)内外の友人達にメールをしてから床に着いた。

 数時間寝て起きたときには新しい情報がいくつも入っていて、Fさんに転送。
Web時代の情報取得を彼も心得ているのだから、私にメールを打ったというのは普通の情報では
満足していなかったのだろう、、、、ちょっと楽しい情報も送ったりしていたら、
なんだか昔がなつかしくなって、私も中東へ飛びたくなってきた。

今の中東は様変わりをしていて、砂漠から空中都市がうまれているというから、
話題のエミレーツ航空のファーストクラスででも飛んでみたいな、、、、。
着陸のアナウンスはなんというのだろう、
NKさんの好きなあのフレーズ<当機は、まもなく最終着陸態勢に入ります。
恐れ入りますが お座席のシートベルトをしっかりとお締め下さい>は、アラビア語からはじまるのかしら、?

〜〜〜〜〜〜〜

 時は1980年代初め、普通でもあまり日本人がいかなかった中近東の仕事に、うら若き!細い
チャーミングな日本女性が、たった一人で空港におりたったのだから、それはそれは話題になった。
天までも驚いたのか、翌日は砂漠に何十年ぶりの大雨が降った。外気は50度!

最初の旅はアブダビメリディアンのオープニングの準備の仕事。
一応、黒のパンツスーツと黒のアタッシュと仕事モードでいったのに、空港に迎えもあったのに、
税関で小一時間もまたされることになったのだった。
すでにあったヒルトンホテルやインターコン、シェラトンなどを視察したり、
当時中東で日本料理屋さんで成功していた方々にもお話しを聞いて、私は数日の間に、
マーケッティングをすませた。
帰りの機のなかで数十枚のレポートを書いて、帰国後すぐにパリの本社に送付。
その結果というか、幸か不幸か次のプロジェクトの為に、また私はクウェイトやアラブ首長国連邦、
シャルジャなどにも行くことになったのだ、、、、、、、、。

アブダビメリディアンのオープニングでは、商社や現地の会社の方をお迎えしての
レセプションもいくつかこなした。
当時の中山大使、JALの支店長の有賀さん、商社の知人などなど素敵な男性方に助けられて、
役目をこなすことができたのかもしれない。
翌日の現地の新聞にも大きく写真入りで報道された。

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(右は外務省からの中山大使と左は日本航空の有賀支店長。私はこのレセプションの為に、
紺地に濃い渋朱色の切り替えの中に更紗模様を描いた着物をデザインして創った。
それにしてもなんと細かったか〜〜〜目をつぶってしまっていて残念、、、)


 若い頑丈な!女性を採用して、アブタビメリディアンに送ったのはその後まもなくだった。
他の航空会社やホテルチェーンも続いて女性駐在員を派遣しはじめたのはいうまでもなかった。
女性が世界にはばたいて仕事をしだした四半世紀前のことだった。
その後まもなく雇用における男女均等法が出来たのだ。

 しかし私の体と情熱は次第に萎み始めていた。
高山先生と体調を相談しながらぎりぎりまで仕事をつづけた。
60カ国にまで成長していたメリディアンチェーンの各ホテルへも足を運んだ。
前任者の男性の原さんでさえ、二年という約束で引き受けたこのハードなポジションを
私は6年間続けてしまった。
ある年の2月3日のプランダクションコメルシアル会議(年度始めのエールフランス本社支社、
子会社を含む戦略会議で、フランスの本社からも何人もおえらさんが出席していた年に一度の会議でであった)
で、私は突然の辞表をだして3月31日で仕事を辞めた。
その二日後に、人生二度目の大きな割腹手術を受けていた。

 お、、、、、朝の二つのメールで、またまた昔の事を思い出している。
過去ログをいろいろクリックして、なつかしさに浸っている。
これって、、、、年とったなによりの証拠にちがいない! 嗚呼!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜詳しくは、これをクリックしてみてください。
http://keico.exblog.jp/5485974
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu 2007.04.26

〜〜〜〜〜〜〜〜

http://keico.exblog.jp/5626037
想い飛ぶ  リラの花咲く 巴里のころMemoires du Voyage-Paris 2007.05.22火曜日

http://keico.exblog.jp/5770820
夏至きたり 古の旅 はるかなる 2007.06.22 金曜日 

http://keico.exblog.jp/5770820
<シリア、ヨルダン、レバノンへの旧約聖書への旅 2004.07.14
by pretty-bacchus | 2010-05-26 23:59 | ♢Journey海外82中東アブダビク | Trackback | Comments(12)

残る花散るを忘るるみぞれかな(飛行機事故の記憶)
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い

 なんと50年ぶりの寒さだという。
遠方の桜は、寒さで散るのを忘れてしまったのかしら?

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 今週の予定をすべてやめて家にいることにして良かった〜〜〜。
それにしても地球はおかしくなっている。
<アイスランド火山噴火 、欧州空路、欠航1万7千便に >
火山灰は地上6千メートルから1万1千メートルの上空をゆっくりと南西に移動していて、
欧州上空にとどまり空港閉鎖は北欧や西欧から中・東欧地域にまで広がっているのだという。
イギリスもフランスもドイツもアイルランド、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、
ノルウェー、フィンランド、エストニア、ワルシャワなど22カ国なのだそうだから、
欧州はほとんど全滅で回復は当分無理なのだそうだ、、、。
各空港は911以来の混乱なのだそう、、、大変だ〜〜〜。

 ネットでニュースをみていたら、同時にパリのフォワーダーさんからもメールが入った。
<ALERT: Eruption of Volcano in Iceland - Airports closure>
ニュースがこうして刻一刻とわかる時代になったのだ。
次回の旅はやはりiPhoneやG3機能のアイパッドをハンドバックにいれるしかないかもしれない、、、、

 私の旅の記録の何百回の出国入国のなかで、一番長い間空港で待たされたのは
72時間くらいが何度かある。
一回はカナダで、この時はインターラインの招待でカナダのスキー場視察、
といってもスキーを楽しむ数人の旅。
カナダのスキー場を四つ周り、数日を過ごして帰国の飛行機が、飛び立って三回も出たり戻ったりで、
72時間近く空港と機内ですごしたのはヴァンクーヴァーでだった。

この時は、エンジン再調整の後離陸でもダメで、二度目に空港に戻ることになった機がさらなるハプニング。
車輪がでなくて緊急着陸態勢なる格好をさせられて頭を前の座席に着けるようにしての胴体着陸をした。
忘れもしない、機の名前は、エンペラーオオブジャパン!
発ったり戻ったりを三回も繰り返す内に具合が悪くなる人、歩けなくなって車いすになる人などが
どんどん増えてくる、、、まるで映画の一間面のようだった。
翌日の新聞の一面記事になって、空港のキオスクでその記事を読んだ記憶がある。
その新聞も持って帰ってきたのだが、どこかにあるはずだ。

今と違って携帯国際電話もメールもない時代だったから、空港の電話機で日本に連絡して、
あとはただ待つしかない。
騒いだって出発が早まるはずもないのだから、、、。
それよりも充分に点検をしてもらったほうが良いのだから、、、、

 もうひとつの最長の記録は、パリの空港でのやはり72時間くらいで、
空港と近くのホテルをただいったりきたりで待たされた。
最初のディレイの理由は、フランスの石油会社のストライキで燃料待ち。
ホテルから運ばれて、ようやく機内の乗り込んだら、こんどはエンジントラブル、
なんとパーツがボーイング社から到着するまで待ち。
空港で待つこと半日、食事もクッキーくらいしか提供されずに、数枚あったピザを何人かで分けて
食べたのだった。こういう時って皆な連帯感が強くなる、、、
これは十数年前かしら? このとき私はヴァイオのB5パソコンを持っていて、
その時の出張レポートをすっかり書き終えてしまった。
(エールフランスの特別待合室にもまだマックが無かった時代だ)

アナウンスがあり、さあやっと、と思ったのもつかの間で、これが極めつき!
クルーの待機時間が規則よりも少しだけすぎたから、なんとクルーチェンジのために、
新しい機長やホステスが着くまで、さらにお客は延々と待たされたのだ。
もうこの時期には、もうエールフランスを辞めていたのが、その事情がわかるから忸怩たる思いだった。
それに、フランスでの遅れとかキャンセルは、従業員組合とかメトロとかパリサンディカのストライキ
とかが多いのに、この日はなんと彼らは正常で、EUの石油関係のストライキだったのだから皮肉なものだ。

 地上職だったのに、パリ駐在員からメリディアン時代には、公私にわたる旅が多かったから、
いろいろの旅のハプニングはまだまだある。
エンジンから火を噴きながらの機にいたり(この時はアラスカのなんやらいう小さな空港に緊急着陸した)
途中で落雷を受けての緊急着陸で、テルアビブ空港についたのだが、あの岡本なにがしの
乱射事件の少し後だったので、日本人だけ街に出られずに何時間も空港待機。
この時も食事は充分にはなかったし暑かった〜〜〜!

そうそう、もっと前のことだが(1970年代はじめかな?)、アラブゲリラが爆弾をしかけた
キャラベル機に乗っていて、フミチーノ空港によろよろと到着、、、
(この時、一番先に奇声を上げて機から飛び出したのはなんとイタリア人のスチュアーデスだった)。
空港の端っこの野原で、一人一人のチェックドバゲッジを確認して、別のバスに移されて、
何時間もかかってやっと解放された。
しかけられた、それが幸運にも不発に終わったと後でわかった。
この時は、パリ>ローマの便で、やはり翌日の新聞の一面を飾ったものだった。
荷物の検査が終わって特別ゲートから税関を出たところで友人と会えて、、、
とたんに安心したのが、体ががたがた震えてきたのを覚えている。

 グループの旅ならば、エージェントの方がいろいろしてくれるだろうが、
一人旅をしていれば、これからもまだまだいろいろ起こることだろうが、、、、さてさて、、、、。
いずれにしても、ますますハプニングは多くなるだろうから、荷物をなるべく少なくすることと、
常備薬は少し多めにもっていくことだろう。
(フィルムがなくなっただけでもかなり苦労が少なくなったに違いない)

 久しぶりにゆっくりと本も読めたし、写真の整理も出来たウィークデーだった。
それにしても寒い!
今夜はしんしんと冷えている。

〜〜〜〜〜
 事務所から運んだ段ボールの中に沢山の写真が出てきた。
それぞれ封筒に入っていて、写っている方の名前が書いてある。
撮った写真は必ず写っている方にお礼の手紙を付けてお送りすることにしていたので、
これらはきっと手紙を書く時間が無くてそのままになったのだろう。

 スキャンスナップを使い始めてから、わざわざ立っていって精巧なスキャナーでスキャンすることもなく、
ソファーに座ったままで即スキャンして、記録に残すせるようになったので、どんどんスキャンしている。

 これは、スイスからアレキサンドル・シュミタイニー氏とスターンさんが来日して、
彼らがカリフォルニアに購入したワイナリーのお披露目を、東京會舘で開催したときの写真。
この時にご招待した全ての方にお願いしたのは、ワイン色の何かを胸に付けてくださいと、いうものだった。
(私の企画のワイン会はいつも、フランスにいたときに身につけた、他者とはひと味違う何か楽しい催しで、
まだ日本人があまりしたことが無い一寸した小粋な、うっふふ、、、があったのだ)

中には、小さなガラスの小瓶に水を入れて本物の薔薇の花をさしている方もあった。
私は、中原ひとみさんのお友達が創ってくださった、絹の大きな葡萄のブローチを左胸に付けた。
このブローチはその後、フランスでシュヴァリエ騎士号をいただいたときも、
ボルドーのオペラハウスのギャラの時も、と、、、、何度も海を越えている。

 懐かしい思い出が蘇ってきている。体調今一で寒いのも、横着になって、
こうして家での整理ができて、時にはよいものだ、、、、、。
右サイドバーに新しい項目を加えて、old records 過去の古い写真や記録を残していこう、、)

なんだか少しお腹がすいてきた、、、、、お腹の調子が良くなってきたのかしら?

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  (1991.11.21日の一枚、東京會舘で主催した試飲パーティーで)
銀座ペリニオンの松本さんは、うっとりと中原ひろみさんをみつめていらっしゃる、
右の方はたしか山崎さんというお名前で話題が豊富な方だった、、、。

ペリニオンがオープンした頃はお客さんも少なかったので、良く仕事ランチやディナーに通ったものだった。

Moreさらに一枚>>>1988.03.21とある
by pretty-bacchus | 2010-04-16 23:59 | ♪JourneyAbroad海外旅の思い | Trackback(1) | Comments(4)