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ボーイング787の事故と半世紀弱の旅の思い出
2013年1月16日 水曜日 曇のち晴れ

 <全日空ボーイング787から煙 高松空港に緊急着陸  バッテリー不具合を表示>
のニュースは、
やはりと言う感じでほんとうに怖い!

機内から煙が発生し高松空港に緊急着陸し、乗客乗員計137人はエアーシューターで降りて全員無事というが、、、。
その後高松空港はしばらく空港を閉鎖したというがそういう問題ではないいような気がする。
操縦室の計器がバッテリーの不具合を示しパイロットが異臭を感じての措置としたら、
それは妥当だったろうが、、、。

 ボーイング787。ドリームライナーといわれるBoeing 787 Dreamlinerは、
ボーイング社の次世代中型ジェット旅客機として注目されて一昨年暮れから世界中の空に飛び始めた。
ボーイング757、767、777の後継の中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと飛行できなかった距離も
この787を使うことにより直行が可能になると話題になった二十一世紀の新航空機。
燃費効率に優れ、ANA、JALとも2011年に就航させこの機の導入を経営計画の柱に位置付けていた。
(もと先輩からもいろいろ情報が届いていた)

 この機種の特徴はいろいろあるだろうが、燃費を20%も節減できて大量輸送ができるのは、
新しいテクノロジーを使ってのことで、それは電子機器=コンピューター制御のハイテクのノウハウが
いろいろありそのことも話題となっていた。
それを操る人間=機長やコパイの訓練はどこまで行われたのだろうかと、友人達と話題になったこともあった。
すでに一年前には、友人からのメールで
<Tuesday, February 07, 2012 7:45 AM
Subject: 部品不具合発覚に納期ベタ遅れ 新機種ボーイング787にトラブル多発 (J-CASTニュース) - >

 そのボーイング787が暴れ出したのだ。
今の旅では飛行機は絶対に落ちないと言われているが、もし電子機器が全て動かなくなり計器が全て作動しなくなったら、
どんなふうに飛行してどんな方法で空港に入り着陸を成功させるのだろうか?
考えただけでも怖ろしいが、そんなことを心配して飛行機に乗る人は皆無なのだろう。

 去年のアメリカのニュースで、いくつかの事故が話題になっていたし、日本でも一、二のニュースで
小さな問題を報じていたし、先週もボストンでJALの便が問題を起こしたとがあったように記憶している。
それが今日、羽田に向かっているANA機が、機体の異常を知らせるメッセージが出て高松空港に緊急着陸。
電気室の一部に漏れがあり、乗客はエアーシューターで高松空港の地上に降りたという。
その後の調べでバッテリーから電解液が漏れていることが確認されたというが、
もはや初期不良とはいえず早かれ遅かれ起きる事故だったのだろう。

今回は機長の的確な判断で乗客乗員が全員ご無事で、事故が大事にいたらなくて本当によかった。
日本のいくつもの優良会社のパーツが多く使われているこの機種だが、原因を徹底究明して
一刻も早い解決をのぞみたいものだ。

 飛行機事故は、新しいテクノロジーが開発されて機種の名前が変わっていくエポックの時期に
多く起こっているような気がする。
ボーイング関係の飛行機事故で忘れられないのは、1966年の2月、3月に起こった連続航空機事故。
1966年2月にはボーイング727-100型機の全日空羽田沖墜落事故で133人全員が死亡し
単独機として
当時世界最悪の事故となっていた。
そしてこの年この後にはボーイング707の航空機事故が相次いで発生していたのだ。

カナダ太平洋航空のダグラスDC-8が羽田空港の濃霧のなか着陸に失敗して大破炎上した
着陸失敗事故が起こったのは三月。
“着陸失敗、炎上だ”という声に事務所を飛び出してはるか向こうに火の柱をみたのを覚えている。

(その頃私は羽田のエールフランスの事務所で働き始めたばかりだった。
都心からの高速道路ができたばかりの頃で、その開通にはブルーバードファンシーデラックスで
自分でハンドルを握って一番乗りをしたものでした)

 (その頃の制服姿の写真は
http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇りのブログへ
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々

http://keico.exblog.jp/10956716/
2010年7月10日 土曜日 曇り後晴れ
曇天にベランダ彩る黒揚羽

 そして翌日の1966年3月5日に発生した、英国海外航空(BOAC)機の空中分解の航空事故。
世界周航便のボーイング707が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解したもので、
乗員乗客全員が犠牲になる大惨事だった。 
(その時私はオフの日で、橋の上の車の中でこのニュースを聞いていたのだ)
羽田空港が濃霧で閉鎖されたため、福岡空港へとダイバートしていて羽田空港への到着は一日遅れの
911便は20時間以上の遅れで離陸したのだ。

英国海外航空機空中分解事故
http://ja.wikipedia.org/wiki/英国海外航空機空中分解事故
このウィキペディアにその惨事の模様が詳しく載っている。
〜〜〜〜〜〜〜〜
<機長がなぜ有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としないものの、
ホノルルから羽田へのフライトは濃霧(前日のカナダ太平洋航空機事故の一因となった)による
ダイバートにより福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田に再度向かったため、
出発が20時間以上遅れていたことが判明している。
そうした点から下記の要因が推定されている。
飛行距離を短縮させて早く次の目的地に到着したかった。
アメリカ人の団体観光客が多かったため、乗客に富士山を見せたいと思った>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この年にはこの後、日本航空羽田空港墜落事故、全日空松山沖墜落事故が続いたのであった。

 それなのに、その羽田空港から、私はこの年の初夏にボーイング707で南回りで、
三十六時間ほどかかって巴里への旅に向かったのだ。

http://keico.exblog.jp/14105309/
2011年12月4日 日曜日のブログへ
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

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エールフランスのパリ>東京路線一番機が羽田空港に到着したのは1952年11月26日という記録があり、
(私はまだ小学生だった)ボーイング707が南回りで経由でパリへと飛んだのは1961年で、
東京 - 香港 - バンコク - カルカッタ - カラチ - クウェート - カイロ - ローマ - フランクフルト -
パリという南回りのエールフランス便だった。
その頃は飛行機は限られた人たちの旅への手段だったのだ。


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1960年には、北回り便(北極圏飛行ルート)に、B707ジェット機が就航。
所要時間はさらに短縮されて18時間になった。
その後大阪万博の年の1970年1月には、東京-パリ間にモスクワ経由のシベリア線が開設されて、
所要時間14時間30分となった。


1972年4月には、ボーイング747が東京-パリ間に就航し、いよいよ大量輸送時代が始まり、
日本からのグループがパリを訪れるようになり始めたのだった。
東京-パリ間にノンストップ便就航したのは1986年。所要時間12時間と短縮されて現在にいたっている。




http://keico.exblog.jp/14339545/
平成24年1月4日(水) 晴
前世紀のエールフランスの食器と天馬



http://keico.exblog.jp/14105309/
詳しくは2011年12月4日 日曜日のブログに
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

 その頃、私のパリの駐在員時代の1970年代初めには航空機の事故に加えて、
アラブゲリラがしかけた爆弾でパンナメリカン機が空港で破壊されたり、
貨物室の扉の閉めわすれたエアーインディア機が離陸直後にルソー眠るエルムノンヴィルの林に脱落など航空機事故が相次いだ。
(この事故では知人のご子息が亡くなっている。私が最初で最後にあってから数時間のことだったのだ)

JALのモスクワ空港シェレメーチエヴォでの離陸直後墜落事故が1972年(昭和47年)11月だった。
その時期にも沢山の飛行機事故が起こっていたのだった。

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その間に 21 january 1976, Air France introduced the supersonic Concorde !

 そして1985年には、あの金属疲労が原因での、あの御巣鷹山での大惨事。
http://keico.exblog.jp/8804714/
| 2009-08-12
日航ジャンボ機墜落事故から、今日でで丸24年

 しかし2009年には、機長の素晴らしい判断で厳冬のハドソン川に不時着したが。
全員が無事という事故もおきたのだった。
http://keico.exblog.jp/7821613
米旅客機がハドソン川に不時着水 乗客乗員155人無事に感涙 2009年1月16日 金曜日

http://www.youtube.com/watch?v=aF3o2nzAoEY&feature=relmfu
Air France: la flotte d'hier et d'aujourd'hui [fr]
郵便船の頃のプロペラ機から現代までの飛行の映像があって楽しい。



Air France Boeing 777-300ER [en]


 私自身も四十数年らい数百回という乗客としての旅の経験の中でなんども事故に遭遇しているが、
こうして元気に今を送っているのはきっと奇跡に近いことなのだろう。
60年代の尾翼が燃えてのアンカレッジ近くの米軍空港への緊急着陸、
70年代初めには搭乗した機にアラブゲリラが仕掛けた爆弾が不発に終わったローマでの事故。
そして落雷を受けてのテルアビブ空港への片翼着陸、
80年代の、足が出ないで何度か離着陸を繰り返し72時間もヴァンクーヴァーの空港に缶詰にされたスキーツアー。
82年のあの細い香港のカイタック空港の滑走路が一瞬間見えて消えた時のこと等など。
どれも熟練の機長による活躍で大事に至らなかったったという。

http://keico.exblog.jp/6042978
2007.08.23 木曜日 事故の思い出

http://keico.exblog.jp/7072885
2008年5月3日、旅の記憶にテルアビブのこと

 飛行機事故はあとをたたないが、最近では現代機器により飛行機は落ちないとまでいわれるように
なってきたが、その精密機器を操るのは<人間>なのだ。
とても怖ろしい時代になってしまったのかもしれない。

 飛行機の思い出はあまたあるが、一緒に仕事をした忘れられない多くの人たちの中に大竹さんもいる。
その当時整備部長であった大竹さんは、トラフィックとかカーゴとかの部長さんと同じように
寡黙で仕事が出来る方だった。
おそらくまだ週に数便だけの巴里>東京>巴里の就航だったろうが、パリからの到着便の時には、
事務所や整備場で待つのではなく、彼はいつも飛行機の着くランウェイでじっと到着を待っていた。
それからが整備の仕事であるのに、彼はいつも真剣に機の着地を見守っていた。

まじめな方だなと思っていたが、東京ではあまりお話しする機会がなかった彼と、
ある日パリのスタージュ(トレーニング)のおりに偶然お話しをする機会があった。
その事を私が話すと、彼は
“今の飛行機で一番危険と思うのはアテリサージュなのです”
“アテリサージュ?” その時は私はまだこのフランス語すら知らず、離陸がデコラージュ、
着陸がアテリサージュだと覚えたのはこの時だった。
そして彼は、“到着後、限られた時間で整備をしっかりしても、飛行中にいろいろ起きてくるでしょう。
飛行を終えて最後に無事に空港の土をふむアテリサージュまでが整備士の仕事なのです。
私はいつも祈りながら到着する機を見ているのです”
とつとつと語った彼の言葉を、もう四十年も前のことなのに、わたしはなぜかはっきりと覚えている。
まだお元気でいらっしゃるのだろうか、、、。
~~~~~~
 飛行機の中から撮った写真は沢山あるのに、飛行機を撮った写真は意外に少なく、
かろうじて707と747はこのブログにあるが、787をとったものは皆無。

http://keico.exblog.jp/5914771/
写真の整理で 旅の記憶を ひもといて

a0031363_314343.jpg (雨の中に落とされ忘れられたバゲッジはパリの空港?)

http://keico.exblog.jp/15505582/
2012年6月5日 火曜日 曇り
初代のデジカメFUJI FinePix4700Zで撮ったイタリアの旅

a0031363_223964.jpg (2000.12.09 pm2:28 パリ>ミラノの便の搭乗口で、、、)


http://keico.exblog.jp/14228306/
2011年12月20日 火曜日 雨上がり その二 機内にて 
☆回想のわが巴里の街〜帰りの機内にて

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 静かな日本の風景や空港に離着陸する<飛行機>を秀逸なタッチでお撮りになるノリさんが、
今日のブログで787を載せていらした。
 <事故が大事に至らなくて、乗客乗員のみなさんがご無事で本当によかったです>と祈りを込めて、
お送りいただいた直近の<空の夢の787>をアップさせていただきました。

日本もアメリカも原因がわかるまで飛行禁止にしたので、
しばらくはこの雄姿をみることができないのでしょう、、、。
ノリさんありがとうございました。

http://dukesaloon.exblog.jp/17636470/
duke days
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 (クリックして大きくするとANAと787がよく見えます)


 〜〜〜〜〜〜
 両親の時代から現代まで、ブルーベリーやiPhoneでのチェックインまで,
ティケットの歴史がおもしろい。
L'histoire du billet de 1933 à 2012 - The history of the air ticket from 1933 to 2012
http://www.youtube.com/watch?v=E7VAbSqywiY&feature=relmfu


~~~~~~~ いろいろ思い出  ~~
~~~~~ 
http://keico.exblog.jp/1745419/
2004年 6月 21日 月曜日
ロマネスクへの旅の誘い

http://keico.exblog.jp/1596968/
2005.01.29
空元気の麗人と いわれて、、、

http://keico.exblog.jp/5485974/
2007.04.26
つづき、オンリーイエスタディーMemoires du Voyage-Arabu

http://keico.exblog.jp/5626037/2007.05.22火曜日 晴れ
想い飛ぶリラの花咲く巴里のころMemoires du Voyage-Paris

http://keico.exblog.jp/6553465/
2007年12月12日 水曜日 晴れ後曇
フランス大使館の昼食会へのお招き

http://keico.exblog.jp/6042978/
2007.08.23 木曜日  青い朝顔は五輪かな
泳ぎ切り 若者眩し 夏の宵

http://keico.exblog.jp/7072885
2008年5月3日 土曜日 雨のち曇りのち少し晴れ 今日は三回目
旅の記憶にーーテルアビブ

http://keico.exblog.jp/7821613/
2009年1月16日 金曜日
米旅客機がハドソン川に不時着水 乗客乗員155人無事に感涙

http://keico.exblog.jp/9180761/
2009年10月30日 金曜日 晴れ
☆回想のわが巴里>>暗い朝に冬のグレーの空のパリを思い出して

http://keico.exblog.jp/10437146/
2010年4月16日 金曜日 曇り時々雨、みぞれで寒い
る花散るを忘るるみぞれかな

http://keico.exblog.jp/10987807/
タヒチへ1973年の写真
誕生日に宇宙よ友よありがとう!
2010年7月15日 木曜日 曇り

http://keico.exblog.jp/11525410/
借景も小さな秋や二つ三つ >>借景も小さな秋の二つ三つ
2010年11月4日 木曜日 晴れ

http://keico.exblog.jp/10926746/
平成22年7月05日(月) 晴れ
炎天のローマの想い時越えて

http://keico.exblog.jp/12897874/
2011年6月15日 水曜日 曇り
梅雨の間にいにしえのふみそっと見て>>梅雨深しいにしえのふみそっと見る

http://keico.exblog.jp/12936763/
2011年6月21日 火曜日 晴れたり曇った
巴里の夢回転木馬ごとごとと

http://keico.exblog.jp/13185825/
2011年8月1日 月曜日 曇り
思い出の昔のパリを簡易スキャニングして
1993年の銀塩を何枚か

http://keico.exblog.jp/13224030/
2011年8月6日 土曜日 晴
1980年代後半からの旅の思い出いろいろ

http://keico.exblog.jp/14109860
2011年12月8日 木曜日  曇りのち雨 
☆回想のわが巴里の街1965~1973 ー忘れられない事

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2011年12月16日 金曜日 雨雨雨の巴里 その三
☆回想のわが巴里の街 ~ルーヴル美術館の思い出1995

http://keico.exblog.jp/15971810/
2012年8月13日 月曜日 晴れ
第三十回の近代オリンピック・2012ロンドンが終わった





More>>ティケットの歴史がおもしろい。
by pretty-bacchus | 2013-01-16 23:58 | ♪JourneyAbroad海外旅の思い | Trackback | Comments(5)

初夢は昔懐かし叔母のことパリの宿
2013年1月2日 水曜日 晴れ
平成25年1月2日(水)

 昨日Hさんから届けられたのは、東京の味のおせち。
そして今朝のお雑煮は鳥雑煮。
お餅は母の処から送ってくれた昔からの味。

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 面白い初夢をみた。 パリの夢、
いつも夢に見るパリの凱旋門に近い日当たりの良い邸宅ではなく、パリの街の叔母の洋装店。
モダンな服装の叔母の側には男性と女性のスタッフが一人づつ。
久しぶりに訪ねた私は叔母と思い出話をしている処に嬉しい知らせが届いた。
大きなクチュールの賞が叔母に与えられて、今夜その小さな授与式があるので出席するようにとの招待状。

 喜ぶ叔母とスタッフ。
けいこちゃんも一緒にということになったのだが、私は着ていく洋服がない。
その時に着ていたわたしの黒の上下をみて、男性スタッフがすぐに裾をなおし、
ウェストラインを両方からしぼり、瞬く間にすてきな新しい洋服となっていった。
叔母は小さい車に乗っていてそれでは四人は乗れないというので、さてどうしよう、、、
と思っているところで目が覚めた。
もっと続きをみたかったな、、、。

 叔母千代倉(旧姓加藤)俊子は母の姉で優秀な女性だった。
加藤文蔵、もんの五人の子供の上から二番目で、母より七つうえだったから、
生きていれば九十七才、卒寿に近い年。
十数年前に亡くなっている。

佐倉高女の成績の記録は八十年もたつのにいまだに破られていないという。
ともかく優秀で何をしても良く出来たという。
竜ヶ崎の教育者のもとに嫁ぎ二人の男の子を育て上げた。
絵も描き書もし、踊りもお仕舞いも、そして後半はお茶の世界にもいたが、
そのあいだに私が高校生と大学生の頃には、東京都心に洋装店を開いたのだ。
どこで習ったのがモダンな仕立て服を創る叔母のお店は繁盛した。

ちょうどフランスではクリスチャン・ディオールが「チューリップ・ライン」や「Aライン」が
はやり始めたころだったのだろう。
(そしてその後のイヴ・サンローランも、、、)
パリからのスタイルブックが、いつも叔母のお店には沢山あった。
大学の帰りに途中で寄ってそれを見るのが楽しみだった。
気に入った洋服があると印を付けておいて、直して欲しいところを白い紙に書いて挟んでおく。
次には母と神田あたりの生地屋さんにいって好きな色や柄の西洋の生地を買って、叔母の処に置いてくる。
何日かすると、私の<プライヴェート俊子叔母オートクチュール>の洋服が出来上がっている。
AラインもHラインもあった。その中のお気に入りの緑のハイネックのアンサンブルは、
まだ私のタンスの中にある。
叔母のおかげで私は学生時代にオシャレな洋服で通学することができて、ほんとうにありがたかった。

a0031363_17312418.jpg (二十年前の護国寺のお茶会での叔母と母と、、、、)

 高校時代は紺の寸胴のように不格好な制服だったが、そのひどい形の制服を新しくしようと、
生徒会の副会長だった私が中心となって女性が一団となり(男子校で女性は一割位しか
いなかったから多分二十人くらいだろうか)先生方に直訴して、新しいフレヤースカートの
上下のサンプルと叔母に創ってもらい朝礼の壇上で披露したのを覚えている。
結局その形が学校で採用されて、叔母は他の洋裁店にも型紙を渡して、翌年には全女性が
新しい制服で胸を張ったのだ。
一緒に行動してくれた同級生の酒井さん、古賀さん、居初さん、郡さん達のことも良く覚えている。
(上級生のことは覚えていないからおそらく三年生の時だったのかもしれない)
その頃は実力試験の成績が巻紙で廊下に貼られて、上から三番目はいつも女性だった。
それにしても五十年も前の時代になんというモダンなわかりの良い先生方がいらしたことだろう!
(担任の先生は井上先生だった)

 そういえばA組の渋谷先生が自分の生徒だけに担当の数学の試験内容を教えたのが試験寸前にわかり、
私たちD組は騒然となった。
怒った私は答案用紙にそのことを数行書いて、試験の内容は白紙で教室を出て図書館に一人こもった。
まもなく担任の先生がいらっしゃり、おまえがそういうことをしては、しめしが付かないから
教室に帰ってくれと懇願されて帰ったのだ。問題をさっとみたが全部わかったが、
用紙は白紙のままだった。

試験の結果は99点が付いていた。いつもの平均点とか。
(随分後にその時の職員会議が大騒動だったと聞いたことがある)
この時は、母は、困った子ですね、と言ったが、父は良くやった、と言ってくれたのではなかったか、、。
(ずいぶん後にその時の職員会議が大騒動だったと聞いたが、その時に家を訪ねてくれた先生が
私をお嫁に欲しいというお話しにいらしたのだということは、もっとずっと後に母から聞いたのだった)

卒業の時に、社会の先生で、演劇部の顧問だった藤井先生が、
“おまえにはいつもハラハラされられたが、悪い仲間にもはいらずに、いつも一生懸命で
成績が良かったし、筋がとおっていたから、先生方も納得せざるを得なかったのだ”と言われた。
いやはや、、、、。

 初めての海外の旅に着ていったのも、叔母の作品だったし、パリに住み始めてもしばらくは、
叔母の作ってくれた洋服をきていたものだ。

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先だって写真の整理をしていたら出てきたのでスキャンをしておいた。
アルバムには 1968年4月ミラノとあるから四十五年前!

三度目のフランス、イタリア、スイスへの旅であった)

 メリディアンチェーンの日本代表の最初の写真は紗あわせの着物のように、
フレアーが二重になった水色のワンピースを着ているから、その頃もまだ叔母のお世話に
なっていたのだろう、、。

 洋服ばかりでなく人の生き方やお作法もいろいろ教えていただいた。
最後に我が家を訪ねてくれたときに叔母が持ってきてくださったのは、半紙の束と叔母が使っていた
仮名文字のお手本だった。

 嬉しい初夢に、叔母のこと高校の制服のことなど、いろいろの事を思い出して嬉しなつかしの
年の初めとなった。

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2005-12-04
従兄弟逝き 氷雨は我の 涙あめ

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2005.12.09
一瞬に 一面の雪 夢さめて

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2006年  3月2日 木曜日
華麗なる 加齢を識りて 春迎え

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2007.09.27 木曜日 曇り
母からの 電話の向こうに 秋の花

http://keico.exblog.jp/6271938
2007年10月6日 土曜日 晴れ
秋茶会 命の限りか母静か




by pretty-bacchus | 2013-01-02 23:23 | ♥Person父母,師友人,人生の宝物 | Trackback | Comments(10)

雨の日曜日に<美容院>の思い出
2012年10月14日 日曜日 雨

 夕方まで雨、でも日曜日の雨は静かでいい、、。
少しゆっくりと思い出にふけっている雨の日曜日。

 昨日の美容院は日本では私にとって最初の経験であった。
夏の汗と冷房の乾燥で傷んだ髪の毛と地肌のトリートメント。
今までのトリートメントと違うのは、カメラで地肌を撮って状態をみて幾種類のシャンプーの中から
最適を選ぶというちょっと楽しい試み。
カメラの方に興味がわいてさっそくしてもらうことにしたのだが、
シャンプー前のまだ汗びっしょりの地肌を撮るということで抵抗した、、、。

二百倍で撮られた地肌と髪の毛がそのカメラの液晶にすぐ現れて、その汚れがわかる。
それから数種類あるシャンプーのなかから最適が選ばれる。
その前に、薄白い泥のような乳液で頭中よくマッサージ。
これで地肌の汚れを呼び出すのだという。
それからは普通にマッサージをしながらシャンプーをしていただき、あとは田中店長のいつものブロー。
(このような仕方は十年ほど前にパリのレミーの美容室でしたことがあった)

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(携帯電話ほどの真ん中のがカメラ)

a0031363_20192984.jpg (施術前)

a0031363_20201340.jpg (施術後はきれいになっている)


 いろいろお話しを聞きながらの数十分は癒しの時間。
ここの美容院はかれこれ十年ほどになるが、田中さんはじめ十数人のスタッフは
皆んなプロフェッショナルでとてもイイコ達が多い。

a0031363_20212153.jpg (スタイリストの中原さんと小野さんをノーファインダーでカシャッ〜〜)
店長とスタッフの写真は下記のブログにも。
http://keico.exblog.jp/14105309/
2011年12月4日 日曜日
☆ Memoires du Voyage ~なつかしの羽田空港から巴里へ出発

 美容院ってシャンプー&カットとともに癒しの場所を思っている。
誕生日の時などは、ブローの席についたら、店長が“ハッピーバースデーツウユウ〜〜”と
歌い始めて、スタッフの皆さんが一緒に和してくださっ、なんだか少し恥ずかしくって、
嬉しくもおろおろしてしまったり、お疲れですね〜〜とシャンプーの後にゆっくり肩のマッサージを
してくださったり、時にはうとうとしているとそっとそのままブローをしてくださる。

http://keico.exblog.jp/13089212/
2011年7月15日 金曜日
満月、そして誕生日でした。

ある時は、午後にカットとブローの予約をしてあったのに、仕事追いまくられて出かけられず、
4時少し前に美容院にかけこんだのに、田中さんは、“まかしてください、となんと
マッサージもついたシャンプーブローを35分でしてくださって感激!

http://keico.exblog.jp/9150550/
2009年10月22日 木曜日 晴れ
6645メートルのメラピークに挑んだ友人の会

 思えば私は小さいときから美容院にもとても恵まれて過ごしてきた。
<禍福はあざなえる縄のごとし>を地で行くような一生で、青天の霹靂に何度もあっていて、
年を重ねる毎にそのアップ&ダウンは幅を広げてアップアップしているが、
こうして元気で毎日を過ごししていられるのは<天地人>のおかげだと思っている。
天に見守られ地に足をついて人々に恵まれの毎日があるのだと心から思うのだ。
いつもありがとうと手をあわせている。

遠いご先祖、記憶にある祖父母、両親、叔父叔母、兄弟、従兄弟達、先生方、
そして友人&知人達の恩恵を受けての今があるのだ。
それに現代においてはウェブ友もいる。
セ・ファンタスティック!
(と、このオプティミストなのも良いのかもしれない)

 衣食住に関してもアップ&ダウンはあるものの、
それぞれにそれなりに恵まれてきたのではないだろうか。
そして美容院もそれはそれは恵まれていただろう。

子供の頃は祖父母の敷地にあった床屋さんで、髪は<おかっぱ>にしていた。お祝い事の時々には
髪をきれいにして新しいお洋服を着て、写真屋さんで撮ってもらった写真が残っている。

小学生のいつのころからは覚えていないが、町の上手な美容院に行くようになって、
とてもよくしていただいた。
気付けの上手なおう先生とカットの名手のお嬢様がいらして、高校生の時にはお下げに三つ編みの
長かった髪を思い切ってバッサリ切った。
友人達は失恋をしたと思っていたようだが、そうだったのだろうか、、。
大学生の時もずっとその美容院で、先生方は結婚式の時にはホテルオークラまで
いらしてくださったものだ。

 パリ駐在時代の二十代後半からは<レミー ポルトレ>。
ジャクリーヌの紹介でいったその美容院はルーブルに近いオペラ通りにあった。
そのあと彼はそこをやめて髪のこと指圧のことなどいろいろと勉強して腕を磨いた。
アレキサンドル(Alexandre de Paris)というパリの一流美容師の片腕にまで上り詰め、
ヨルダンの王妃にこわれて数年ヨルダンにいっていたこともあった。
今はチュイルリー公園に近い細い道で、<Salon de coiffure Paris REMI PORTRAIT>の
オーナーになっているが、十数席の小さな店はいつも年配の女性で一杯。
髪を洗いながら、助手の女性が足のマッサージをしてくれたり、
時間があると小さな小さな別室でトリートメントをしてくれる。

十数年前に、髪の健康にあたえる重要性を唱え、
« Cheveu, parle-moi de moi »と本を執筆している。
パリに行ったときはいつもなんとか予約の間をぬってしてくださるありがたい友。

ミレニアムを祝ってレミーとジェラールの三人で食事をしたことがあった。
彼の写真がどこかにあったとおもって、2000年時代のデジカメのデータをさぐってみたら出てきた。
(初期デジカメなのにexifデータがちゃんと残っていて撮影日の何時何分までわかるのだ。)
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(19 December 2000, Paris) 

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(今のホームページの彼)

この時の真夜中のエッフェル塔!
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彼の友人のジェラールでいつも私の足になってくれたジェラールは、
a0031363_2101681.jpg  (モンマルトルの丘の上のテルトル広場で。

 一人の時の巴里での夜の写真のときは、ジェラールがいつも運転役をしてくれた。
本職はインテリア会社のオーナー、副職はタクシードライバー、そしてケイコの写真撮りの助手?と
ボディーガードを務めてくれた。
そんな時には車の屋根の上の<TAXI>のマークにカヴァーをかけてしまってくれた)

パリにはユニークな人がたくさんいる。そして色んな人に助けられて今の私がある)

http://keico.exblog.jp/13201187/
2011年8月3日 水曜日 雨
簡易スキャンで夜の巴里モンマルトルと凱旋門を


 パリでのもう一つの美容院は、シャンゼリゼのオフィスから数分歩いた
ジョルジュサンク通りを右に曲がってすぐの建物の奥まった処だった。

オルリー空港からシャンゼリゼ121番地の二階の日本人応接係に移って一番驚いたのは
このカウンターでは、身ぎれいにしていることもとても必要といわれて、
一週間に一度だけ、お昼休みをかけて近くの美容院で髪とマニュキュアを
してもらうことになっていた。
大学の卒業式まで化粧っ気なしの私だったから、パリでの生活は一つ一つが驚き。
クリスチャンディオールのユニフォームだったのですから!

http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇り
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々
        〜〜〜
 パリの駐在から帰国してのしばらくはエーフルランスのオフィスが日比谷の三井ビルにあり、
美容院はすぐ近くの帝国ホテルの地下の大場美容室。
大場先生もご健在のころで、私の担当はゆみこさんという女性。
彼女とは仲良しになって有馬稲子さんと三人で、横浜アリーナでのマイケルジャクソンのライヴを
観に行ったりしたこともあったな、、、(あ〜〜懐かしい〜)

 さてその後は青山に事務所が移り近くの美容院に。
会社を辞めてからは、身内の会社が四ッ谷の後に代官山の自社ビルに移り、
この近くの美容院でもとても良くしていただいた。八十年代後半のことだろうか。
そのビルも今は無い。
そして今は四ッ谷の愛子先生のお店Tでお世話になっている。
ここは実は八重子さんのご紹介だったが彼女は来ていない。

 以前はビョウインよりビヨウインが習慣だったのに、このところそれが反対になってしまっている。
セ・ラヴィ!
雨の日曜日に<髪>の思い出に浸った一日だった。

〜〜〜

more>>>このブログ内で美容院




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by pretty-bacchus | 2012-10-14 23:59 | ♦JourneyAbroad海外1970 | Trackback | Comments(2)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 ーシャンゼリゼ
2011年12月11日 日曜日 その一a0031363_21252852.gif
☆回想のわが巴里の街 ーシャンゼリゼ

 今日も雨の予報、、、晴れ女のはずなのに、こんなに雨も珍しい。
パリにてすらも珍しい毎日の雨予報。
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 約束の時間だが、どうしてもこの通りを通りたかった。
あの凱旋門を目指してシャンゼリゼ大通り走ってもらった。

 コンコルド広場から少し昇りの道の4キロ弱が、シャンゼリゼ大通り。
六車線と二重の街路樹の幅が70メートルもある大通り L'Avenue des Champs-Élysées。
世界で最も美しい通り(la plus belle avenue du mondeといわれるあのシャンぜリセ大通り、、、「極楽浄土通り」
春にはマロニエとプラタナスの木が緑をつけて、夏には木陰を作り人々のいこう通りとなり、
紅葉の枯れ葉の秋をへてイリュミネーションのクリスマスとなる、シャンゼリゼ!

 コンコルド広場から少し昇りかげんの道を三キロあるくと56メートルの凱旋門がでんと座す。
「Arc de triomphe de l'Etoile」「エトワール広場の凱旋門」が凱旋門の正式名称だったが、シャルル・ド・ゴール広場が今の正式名となったが、わたしは昔のようにエトワール広場という言い方のほうが好き!
12本の通りが放射状に延びて、その形が光り輝く「星=étoile」のように見えるから、この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」

 このシャンゼリゼ121番地は1970年代はじめに、二年間毎日通っていた事務所があった。
まだそのころはリドがあり、クラリッジホテルがあり、そしてパンナメリカン航空のパリ事務所があった。
(ブログ)

 このシャンゼリゼ大通りが一番賑わうのは7月14日のフランス革命の大行進と、12月31日のレヴェイヨンの年越しの時だろう。
国旗の色と同じ飛行機雲をなびかせて、戦闘機が上空を飛び、通りには戦車が行進して国家の軍事をこっきする様は見事である。 フランスは農業国で、パリ祭のあの軍事行進は国家威信を見せつけるためにちがいない。
その行進にはエコールポリテクニックの学生達も加わり、その先頭を女性があるいたことがあった。

 さすが農業国〜〜と思わせる催しをすることがある。
凱旋門からロンポワンのロータリーまでの1キロ強を農場にしてしまうとい催しが春の農業祭りのおりに時々行われる。
1,000人もの農業者が参加して、トラクターもそれ以上で、フランスの農業の大半を見ることができるのも、ひとつの農村者のデモンストレーションかもしれない。前の晩は車で混んでいたあの六車線L'Avenue des Champs-Élyséesが一夜にして麦畑になるのはなんとも爽快である。
(more>> に写真を)
 そして、シャンゼリゼは自転車レース「ツール・ド・フランス」の最終ステージのゴール地点でもある。

 凱旋門に向かって左側のジョルジュサンク通りの角には、<凱旋門>の処で書いたが、赤いテントが目印のカフェフーケがあった。
今は、新しいホテルになり、その名も
フーケッツ・バリエール・パリ
FOUQUET’S PARIS BARRIÈRE PARIS
George V & Avenues Champs-Elysees 75008 Paris

 
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(2006.12.00 冬でもこんなの空が青いこともある! 

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  (2008.12.19 遥かにかすむ凱旋門、シャンゼリゼ通りを横切るときに、窓越しにカシャっと)


 そして、後には、コンコルド広場が、、、、、

a0031363_23453610.jpg  (パリ、コンコルド広場の噴水の夜景)

http://keico.exblog.jp/10584167/
2010年5月8日 土曜日 曇り
Memoires du Voyage 旅の写真を絵はがきに

~~~~~

そして今日の巴里、
10 December 2011 Paris

日曜日ですごい人!
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10 December 2011 Paris, Avenue des Champs-Élysées (こっち向いてカシャッ、、、
横断歩道の真ん中で忙しい〜〜〜〜!
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(あっち向いてカシャッ、、)

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 (ロンポワンのタクシー乗り場から望遠ぎりぎりで、遠景のビルとエッフェル塔を)


続きは、
a0031363_17938.jpg
そして今日の巴里へ、、、、
11 December 2011 Paris


〜〜〜〜〜〜〜〜
more>>>このブログ内で<シャンゼリゼ>で検索したら、なんと沢山でてきた。
moreに記録で残しておこう。

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More>このブログ内で<シャンゼリゼ>
by pretty-bacchus | 2011-12-11 23:57 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(4)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 凱旋門に励まされての日々
2011年12月10日 土曜日 凱旋門
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 今日も雨模様、、、打った横胸は動くと痛いがじっとしていると痛みはない。
寝てにがえりを打てないから少し辛い。
そして昔の回想は続いている。 今回のパリはこんな風にじっとして昔を思うように運命ずけられていたのだろうか、、、。

「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド「戦勝のアーチ」
凱旋門はパリだけでもカルーゼル門、サン・ドニ門、サン・マルタン門など多数存在する。
でもなんといってもトワール凱旋門Arc de triomphe de l'Etoileは、シャンゼリゼ通りの西端、
シャルル・ド・ゴール広場にある凱旋門が一番。

アウステルリッツの戦いに勝利した記念に、1806年にナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まり、
ルイ・フィリップの復古王政時代1836年に完成している。
12本の通りが放射状に延び、その形が光り輝く「星=étoile」のように見えるので、
この広場は「星の広場(エトワール広場) la place de l'Etoile」と呼ばれている。

凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓があり、いつも灯火と花が絶えない。
でも、今はこの広場は「シャルル・ド・ゴール広場 la place de Charles de Gaulle」となっている。
フランスは偉大な人の名前がついた通りや広場は多く、時代によって変わっていったりするのだ。
凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓があり、いつも灯火と花が絶えない。

 この五〇メートルの凱旋門、
私は二年の間だ、毎日この凱旋門と睨めっこをして、そして励まされていた。
ジョルジュサンクのメトロを降りてのほんの数分を、この高い凱旋門をじっとみながら、
目にはいっぱい涙をためて、ぐっと拳を握りしめて、、、エールフランスのオフィスに通った。

凱旋門から三つほど手前左側の三色旗のはためく社員通用口から入ると、
まずお手洗いに飛び込んで、涙の顔をきれいにして、笑顔をつくって自分の席につく毎日、、、、。
シャンゼリゼ121番地のエールフランスの二階奥のお客様特別カウンター、そこがオルリー空港のあとの私の
“あこがれのパリ”のはずの職場だった。

すでにパリの生活には慣れていたが、今で言うパワハラ(パワーハラスメント)にあっていたのだった。
涙無くして通えるようになったのは、あの偉大な凱旋門が、
“頑張れ、がんばれ、、負けるなケイコ、って毎日毎日慰めてくれたから、、、、。
空を見上げてぐっと手に力をこめて、あるときは雨傘ごしに凱旋門をあおぎ、くる日もくる日も凱旋門とお話をしていた。

(その凱旋門の上にのぼって撮った写真が、往時の西銀座デパートのショーウィンドー一杯のパリの写真展の
メインになったのですから人生とは不思議なものですね、、、)

 制服は当時のパリファッション界の寵児のクリスチャンディオールの特別製。
一人一人がヴァンドーム広場近くのアトリエで仮縫いを重ねてつくってくれたのですから、
なんという贅沢なユニフォームだったことでしょう。
空港では帽子もかぶらなければなりませんでしたが、シャンゼリゼのオフィスでは脇においていました。
クリスチャンディオールの制服は、中の白いブラウスの襟前は長方形のリボンで、濃紺の襟ぐりが広いラウンドの襟から
それが見え隠れするのです。袖も洒落ていました。
そして胸には小さなエールフランスのマークの入った記章。
このユニフォームを着たくて試験を何度も受けた人が多かったそうです。
そんな時代でした。

このカウンターでは、みぎれいにしていることもとても必要といわれて、
一週間に一度だけ、お昼休みをかけて近くの美容院で髪とマニュキュアをしてもらいました。
大学の卒業式まで化粧っ気なしの私でしたから、パリでの生活は一つ一つが驚きでした、、、
そう何もかもです、、、。

 そしてその少し下がったジョルジュサンク通りには、レマルクの小説<凱旋門>にでてくる赤いテントのカフェ フーケがあったのですが、今はホテルになってしまいました。
休憩時間にちょっとおすまししてお茶をしたものでした。
遠いとおい昔の思い出です。

 それから何百回と訪れたパリで、この界隈に用事がなくとも必ず車ででも通りすぎたい、仰ぎ見たい凱旋門です。


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http://keico.exblog.jp/9187764/
2009年11月1日 日曜日 曇り
☆回想のわが巴里>凱旋門に励まされての遠いパリの日々


 (パリの駐在員の頃)


~~~~~~~~

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今日の巴里、
10 December 2011 Paris

<<<<http://keico.exblog.jp/14150574
今日の巴里、

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Midnight 10 December 2011 Paris, La seine et Notre Dame de Paris

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More>>>記録として
by pretty-bacchus | 2011-12-10 23:59 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(4)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 ー世界遺産
2011年12月9日 金曜日a0031363_21252852.gif

 雨の朝、、、少しゆっくりとしよう、、、。
といってもお部屋の中で本を読んだり、ネットをしたり、、、。
ようやくブログ友たちのブログを見る余裕ができた。
そしてフランスのことも、、、、

 フランスの世界遺産はいま何カ所あるのだろう。
wikipediaでチェック、、、便利な世の中になったものだ。(more>>>フランスの世界遺産)
フランス国内の世界遺産は現在で31件で、 世界でもトップクラスの世界遺産登録数を誇っている。
南仏を中心に、ローマ時代からの古代遺跡の世界遺産が南半分の地域に集中し、
大聖堂や修道院などのキリスト教関係の世界遺産は北半分の地域に多く集まっている傾向があるという。

 訪れたフランスの世界遺産を数えてみたら、二十数カ所もあった。
巴里に駐在のころは近郊が多かったが、エールフランスの機内誌<BON VOYAGE>の取材の1990年代後半にもかなり回ったのだろう。

 ユネスコで世界遺産が採択されたのは1972年で、私はパリに住んでいた頃だった。
ユネスコが世界遺産を最初に採択したのは5つ。
■[1979]モン・サン・ミシェルとその湾
■[1979]シャルトル大聖堂
■[1979]ヴェルサイユの宮殿と庭園
■[1979]ヴェズレーの教会と丘
■[1979]ラスコーの壁画のあるヴェゼール渓谷の装飾洞窟群

 どれもが想像を絶する素晴らしさである。
何度訪ねてみても、その魅力はさらに増してくる。

この後26が世界遺産に指定された。
そのどれもが、それぞれ、「わざわざ行ってみる価値がある、という、
フランスのミシュランガイド風にいえば、三つ星に間違いなかろう。

 遠い昔のことで、、、、え〜? 四十年も間のこと!
この頃には巴里の街の建物はすっかり白くなっていた。
最初のパリへの旅は1966年。凱旋門もなにもかもパリの街の建物は真っ黒だった。
アンドレマルローの案で、それらがきれいに荒い流されて、60年代後半にはパリは白く生まれ変わった。
70年前半の4年間を私はパリで過ごした。逆単身赴任という珍しいケースであった。

 パスポートが自由にとれるようになって数年がたっていた。パリー東京間にはジャンボジェットが就航して、
日本からのお客様が急速に増えはじめていた頃である。
巴里の駐在は、フランス語もおぼつかないままに到着の翌日から仕事についた。
最初の一年ぐらいは泣いて暮らしたかもしれない、、、。
でもパリに住んで仕事をした経験がなかったら、、、今の私はないだろう。

 料理上手な祖母と、茶道・華道の先生という日本的な母と、西洋の影響を沢山与えてくれた父のもとで育った私は
わがままな娘であった(であろう)。
大学を終わり社会人4年目にパリで一人暮らしをしたことは人生の大きな一つのステップであった。

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 写真は四年生のときに父がくれた二眼レフで始めていた。隣の電気屋のお兄ちゃんが現像を教えてくれた。
最初のパリの旅行の写真が友人に認められて、巴里という写真展が有楽町の西銀座デパートで行われたのは1966年?
ショーウィンドーをぐるっと囲んだ私が撮った写真は、当時の人たちに羨望すら与えた。
萩原朔太郎の有名な詩「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し、
せめては新しき背広を着て気ままなる旅にいでてみん」が実感の時代である。
凱旋門の上でであった尼僧とシャンゼリゼ通りを縦長の一枚に納めたショットが
大きくのばされて話題にになった。

 その三年後にパリの駐在員としてパリに住み始めた私は、泣きながらのパリの生活をすこしずつ写真が癒してくれた。
パリに住んで二年がたっていて少し生活にもなれてきていたし、
世界遺産という対象ができたこともきっかけだったかもしれない。
世界遺産! そして「よ〜〜し。世界遺産をひとつずつ訪れよう!」
フランスにいる間に、ヨーロッパの世界遺産を全部回ろう〜〜って思ったのだが、、、、。

 私の世界遺産の旅の始まりは、<パリのセーヌ川河畔>からだった。
セーヌ河畔といったってそれはそれは広い!
セーヌ川はパリの中心を東西に流れ、川沿いにルーブルやノートルダム大聖堂がどっしりと座す。

お休みの度にパリを撮った。
でも時にはリュクサンブール公園で遊ぶ子供たちや、ブローニュの森にも足をのばした。
楽しかったな〜〜〜〜〜。
ユネスコが募集した世界遺産写真コンクールに五点の写真を応募したのは、ず〜〜と後のことである。


 日本が世界遺産を採択したのは1992年。その後世界遺産の数はふえて、、、、今では700以上。
もはや重いカメラをもたずとも一生かかっても回れる数ではなくなって、全世界遺産撮影の度の夢はからくも消えていった。

 でも毎年世界の中の世界遺産を訪ね、十数年前から年賀状を世界遺産の写真でで
手創りをするようになって、凝り性は生きている。

 年賀状を世界遺産で作り始めて十数年。今は自家プリントになっている。
スキャナーとプリンターが進歩して、その上経費節約の気持ちは思わぬ効果を生むことになった。
さあ、、、来年はどの国から選ぼうか、、、。60カ国の旅の思い出がまわる。
彦星と織り姫が年に一度の逢瀬の頃になると、年賀状のことを考えている。
でも来年の図案はきまっていないのだ、、、、。

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(十二年前の辰年の賀状は、セーヌの一枚を使った、、、)

  冬のパリもやはり<巴里>
私の第二のふるさとなのだ。 出かけよう〜〜〜〜!
雨模様の今日の午後は、そんなセールの河畔までと思い出かけたのだが、その少し手前のルーヴル美術館で足止めされてしまった。
あのイオ・ミンペイのガラスのピラミッドの地下の、ダン・ブラウンの長編推理小説<ダ・ヴィンチコード>の逆三角形の向こうに、
新しくできた<アップスルトアー巴里>に足は釘づけされてしまったのだ。

 いったいこれは誰のアイディアだったのだろうか? もちろんスティーブ・ジョブズに違いないが、設計は? 施工は?
ルーヴル美術館のこのガラスのピラミッドを造った建築家イオ・ミンペイは関与していたのだろうか?
といろいろ考えてしまった。

人間の英知の行き着いた芸術作品を有するこのルーヴル美術館の地下。
現代の建築の英知のガラスのピラミッド。そして現代の英知の象徴の<アップル>のパリ店!
すごいコラボレーションに私は圧倒された。
これこそもう一つの世界遺産であろう。


a0031363_233152.jpg(時計があった。出かけた時間の記録にカシャッ、、、ギマールのアールヌーヴォーのメトロの駅は、、、
今パリに何カ所あるのだろうか?)

a0031363_23343928.jpg (09 December 2011 Paris, Metro 4 Septembre )

a0031363_2333222.jpg (09 December 2011 Paris, Avenue d'Opera)

a0031363_23362424.jpg (09 December 2011 Paris, Place de Theatre )

a0031363_00281.jpg

a0031363_02595.jpg

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続きは、今日の巴里へ
09 December 2011 Paris


More>>フランスの世界遺産
by pretty-bacchus | 2011-12-09 23:58 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(3)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 ー忘れられない事
2011年12月8日 木曜日  曇りのち雨a0031363_21252852.gif 

 かなり寒くなってきたようだ。
朝窓をあけると気持ちがいい。

今日の約束が延期になって、ぽかっとあいた一日。
なんだかその昔のことがいろいろ思い出されている、、、、、、、、。
オルリー空港での仕事、シャンゼリゼ大通り121番地での仕事、、、、etc,etc.
あの頃は若かった〜〜〜〜! そして今m、、、、、
どうやら今回は追憶の巴里になりそうだ。

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 海外での初めての職場のオルリー空港の仕事の中は忘れられない事が山ほどある、、、、。
ようやくパリにも仕事にも慣れはじめた1970年のはじめに祖母がなくなった。
祖母が倒れたとき、敬子は大事なお仕事でパリにいるのだから知らせないようにといっていたのだそうだが、
弟が見るに見かねて電話をくれた。
ちょうど日本に一時帰国する頃だったので、許可をいただいて日本に飛んだ。

 駆けつけた病院では祖母は、もうほとんど臨終状態だったが、
“敬子ですよ、、、パリから会いに帰ってきましたよ、、、、”
と言うと、しっかりと私の手を握りかえしてこたえてくれた。
その夜に彼岸に旅立った。
倒れてから21日がたっていたという。私の帰りを待っていてくれたのだ! 享年88才。
母の母、加藤もんは、武家の血を引く庄屋さんの娘で、とても優秀な女の子で、明治の頃なのに、東京の女学校にすすんだという。
人力車にのって日傘をさして麹町の高等師範の女学校に通ったそうだ。

お嫁に行ったのが加藤家で、遊び人でも人情家の庄屋のようなお爺さんは、
町になかった消防団をつくったりして、いろいろご奉仕ばかりで、家を守るお婆さんがとっても苦労したことは、
ほんの数年前の母との京都の旅で母から聞いたことがある。
しっかりしたおばあちゃんだった。

 戦後しばらくして母の実家で暮らしていた私たちだったが、大勢の若い衆や女中さんがいて賑やかなお家だった。
まだ時代が日本中苦しい頃で、真夜中にお米や穀物を盗む泥棒が入るのだが、それが誰かわかっていても、
“あそこは大変だろうから、見てみぬふりを、、、”と祖母がいって、捕まえなかった事があってよく覚えている。
おそらく1950年代はじめのことだったろう。
(このあたりは、叔父 加藤哲夫の本に詳しくある、、、)

 その年で忘れれないのは、1970年11月25日の日本での事件。
オルリー空港のカウンターで、フランス人が
“keiko〜〜〜〜〜〜〜Mishima est mort”と叫んだのだ。
三島 由紀夫が割腹自殺をはかったのは1970年(昭和45年)だった。
その頃はまだインターネットはおろか、日本語も新聞もパリにはなかったから、
次の便で日本から着いた新聞をむさぼり読んだものだった。

 そして、70年代初めには、アラブゲリラの爆弾事件が多発して、
パンナメリカン航空の爆破、ルフトハンザのエルムノンビルへの墜落事故(これでは知人のご子息が亡くなった)などが
続いて、航空業界ばかりでなく社会は大騒ぎとなっていった。

 四十数年の間に、私は乗客として、何百回の飛行機に乗っている。
いくつもの危ない飛行機事故にも遭遇している。
明らかにバードストライクとみられる事故に遭遇したことがある。
まだ、東京パリ間に直行便もモスクワ経由のない時代のこと。
ジャンボが就航したばかりだったかな?
アンカレッジを飛び立ったすぐあとに、右エンジンから発火、
まもなく近くの空軍基地に緊急着陸したことがあった。

 その後も、アラブゲリラが爆弾をしかけた機に乗っての不発に終わったパリ>ローマ便、
テルアビブでの事故機の経験、嵐の香港でたった一機到着成功の時は死ぬかと思ったのは1982年ごろ、
この時のパイロットだったのは元空軍の機長だったとのことだった。

 カナダのヴァンクーバー空港で、胴体着陸で72時間缶詰で出たり入ったり、、、。
などなど、、、

http://keico.exblog.jp/6042978
2007.08.23 木曜日 事故の思い出

http://keico.exblog.jp/7072885
2008年5月3日、旅の記憶にテルアビブのこと

http://keico.exblog.jp/7821613
米旅客機がハドソン川に不時着水 乗客乗員155人無事に感涙 2009年1月16日 金曜日


 そして、1971年春には、仕事場はシャンゼリゼ大通り121番地のエールフランス航空の二階の
<日本人応接係=チケッティングカウンター>に移っていた。
ここで、今で言うパワーハラスメント的なつらさにあって、毎日メトロを降りてのほんの数分の道を、
偉大な凱旋門をみて二年間通ったのだった。

 母が日本からきてくれてたのもこの頃だった。
父も一緒にと何度もすすめたのだが、その分、母を何度でも連れて行ってやってくださいと、頑として腰を上げなかった。
母とはその後もイタリアやスイスへも旅を共にすることができた。

 連れ合いのご両親が揃って来て下さったが、仕事を休めずに、
いろいろご案内できなかったことが今でも悔やまれてならない、、、、

 いろいろのパリを、いまこうして巴里で思い出しているというのは、なんとも不思議な気がしてしまう、、、、、、!
人生の浮き沈みの波を乗り越えて、今こうして冬の巴里に存在する自分に、なんともいえぬ恍惚感と不安感を覚えている。

~~~~~~~~

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そして今日の巴里、
08 December 2011 Paris

>>>
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(08 December 2011 Paris Lancel のショーウィンドー
ブリジットバルドーも若かった、でも今は、、、、嗚呼!))

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(08 December 2011 Paris
Cafe de la Paix 通りすがりに腹カメラでノーファインダーでカシャッ!
巴里の中年男性ってかっこいい人がいるな!

この機種とレンズは実によく巴里の空気と光と風を映してくれる、、、)
 
>>> 
>続きは次へ、、、、、、、、

今日の巴里、08 December 2011 Paris >>>
by pretty-bacchus | 2011-12-08 23:58 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(4)

☆回想のわが巴里の街1965~1973 ーアパルトマン
2011年12月7日 水曜日 曇りのち雨、雨模様、、、その一
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 あれはもう40年も前になるのだ、、、、、、
フランス語もおぼつかない私が突然の巴里駐在員に任命されて、
あれよあれよというまに巴里で仕事をすることになったのは、、、。
慣れない仕事に疲れ果て、ホテルに帰ってドアをしめると崩れるように座り込み
崩れてしまっていた、、、、あのころ。

 会社は部屋を探してくれなかったし、巴里到着翌日から仕事にかかっていた。
そのとき泊まっていたホテルは7区のアンヴァリッドのちかくのはずで、回りは庶民的な食料品店が多かった。
ホテルの中心にほんとうに小さい中庭があってとても慰められたのを覚えている。
今回はぜひ訪れてみよう。

 そして、仕事の合間に不動産屋さんを訪ねて何軒かをみて、やっときまって住み始めたのは、
車で空港にいきやすいようにとポルト・ドゥ・ヴェルサイユから少し街中に入った15区の七階のアパルトマンだった。
17 Rue Desnouette Paris Paris 15 arrondisement
この道は一方通行で、そこをでたところがリュウ・ドゥラ・コンヴァンションだった。角にはシャルキュトリ−があって、
うさぎとかイノシシの皮をむいたのが下がっていて、もうほんとうに驚いたモノだった。

家はその少し手前の右側のゲートを入って、中庭を問うって小さいエレヴェーターに乗って七階へ。
太ったもそもそと話す管理人さんのオジサンにはとってもよくしてもらったな、、、 
ゲートに入る左側にはハムやさん、チーズやさんなどがあった。
ジャンボン・ドゥ・パリと、ブリというチーズを覚えたのはこのお店で、おばさんがよくおまけをしてくれたものだった。

 芸術の都巴里の逸品たち、自然豊かなフランス全土の食とワイン、風物、、、
私たちは毎週末にフランス中を、いや世界中を旅しながら、フランス駐在を楽しみ始めた。
フランス人たちの粋とエスプリ、マナー、冷たそうな裏の優しさ、人間愛、なども
この時代に自然とわかっていったに違いない、、、
二十代に養われた、ヨーロッパ文化は、その後の人生に大きな豊かな感性を与えてくれた。
(それは日本文化の基礎があってのことなのだが、、<<<両親に感謝!)

 パリの暮らしに少し慣れ始めた私は、サンジェルマンやサントノレ通りやカンボン通りを歩き、
知らない小径を歩いて地図に赤い線を引いていった。地図はだんだんと色づいていった。
週末はクリニャンクールの蚤の市を歩き回ったり、

 その次のパリのアパルトマンは、1980年頃に友人のジャクリーヌの家だった。
81年からホテルメリディアンチェーンの仕事だったから、ポルトマイヨーのメリディアンパリの後の出口から数百歩の
Rue du Debarcadere. Paris 8 arrondisement
(1980年春から1990年頃まで)

扉をあけて最初の建物を抜けて中庭を通ってその先の二階だった。
この中庭からは一つ手前の建物の裏口に入れて、なんとここが一つ星のレストランだった。
ここのオーナー夫妻にはとてもよくしていただいたし、生涯の友人となったランブロワジーのディレクターの
ピエール・ル・ムラックとあったのもこのレストランでシェフソムリエをしていた頃だった。

そして十年後の1990年には、
1990年から2000年1月まで
2 Rud Boucicaut 15 arrondisement

どうやらパリのアパルトマンの歴史は十年ごとになったようだ。
2000年に病を得て、それらを縮小ししてから、もう十年以上になるのだ。


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 グーグルアースで、パリで住んだ三つのアパートメントにピンをうってみた。
 そのどれもからエッフェル塔がみえていたのが、よくわかる。

1969年9月から1973年春まで
17 Rue Desnouette Paris 15 arrondisement
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仕事場は、オルリー空港と、121 Avenue de Champs-elisee

1980年春から1990年頃まで
Rue du Debarcadere. Paris 8 arrondisement
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1990年から2000年1月まで
2 Rud Boucicaut 15 arrondisement

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(額の中の写真はブシコーのアパルトマンの玄関にて)


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(ブシコの家の玄関で撮った写真を東京の我が家で、、、)

そして2000年2005年2006年に10日間ずつお世話になったSさんの邸宅は、
15 quais de Montebello

~~~~~~~~~~~
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記念日は アポロ11号 月に着く
2011年12月12日 月曜日
記念日は アポロ11号 月に着く
2004.07.22
 人類初の月面到着。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。この時私は三度目のパリ行きの機内にいた。 

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その頃の若い私はクリックしてみて下さい
凱旋門に励まされての遠いパリの日々
2009年11月1日 日曜日 


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そして
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今日の巴里、
07 December 2011 Paris >>> 次頁へ

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by pretty-bacchus | 2011-12-07 23:59 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(7)

☆回想のわが巴里の街1965~1973(今回二日目)
2011年12月6日 火曜日 曇り  その一
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 なつかしい音で目が覚めた。
午前六時、、、ガーゴトゴト、、、ガーゴトゴト、巴里のゴミ車=カミヨンプーベルがやってきたのかしら?
今では日本でも同じような形の車があるかもしれないが、このごみ車は各個の前でとまってそこにだされている緑色のゴミの箱を空にして立ち去る。
、、その間数分だが、一方通行の長い道になると、その後ろに車でついてしまうと、もう何分の何十倍も待たされることになる。

 ガーゴトゴト、、、もう少し寝たいがだめみたい、、、、。
昨夜は結局まんぞくな夕食もせずに寝てしまった。
最後は足がぱんぱんになって出かけるのをためらって横になったらそのまま白河夜船 in Paris!

 結局起きてしまって、ゆっくりとお風呂に入って二日目の巴里!

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 (am9:50 どうやら青空がでてきたようだ、、、)

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 (結局ゴミ車はこのあとやってきた、、、)
06 December 2011 Paris,

 下に降りてダニエルとしばらくおしゃべりのあと朝食をいただく。
三つ星ホテルぎりぎりのメニューで、卵はゆでたまごだけで、ちょっと寂しい朝食だが、ジャンボン ドゥ パリが美味しくてうれしい。
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 それにしても冬の巴里は暗く寒い。
四十数年前の初めての巴里も、次の巴里も春、そして連れ合いとの次の旅も春だったから、
1969年に住み始めた頃の冬の巴里は暗く冬が辛かった。
なにせ、凍った高速道路を運転してオルリー空港まで通わなければならなかったのだから、、、。
このグレーの空の冬の巴里が好きになったのは数年たってからだった。

 でも冬来たりなば春遠からじ!
寒い寒い冬がようやく終わること、パリではまず黄色いレンギョが芽吹き始める。
「あ〜〜やっと春が来た! 道が凍らなくなるのだ、、、よかった〜〜〜、と思ったものだ。
空港への道で黄色の連翹の花が咲き始めると、春の訪れのシルシで心が躍った。

やがて、紫色のリラの花が道みちに咲き始めると、もう冬には戻らない。
風もさわやかになり、<春>プランタンは確実に街中を埋めつくす、、、、。
白いリラが花屋に並ぶ頃には、パリは春一色になる、、、、、アネモネ、パンジー、デージー、、、
この頃から、5月1日のスズラン祭りのころまで、一日一日緑と花に一喜一憂しながら
希望の春の日々がつづく、、、。

それほどフランスの冬は寒く、春が待ち遠しかった。
まもなく白やピンクのマロニエが街を彩るようになる、、、、。
チュイルリー公園やリュクサンブール公園に子供連れのカップルが多くなる。
郊外の野原には、真っ赤な芥子が緑の麦畑に咲き乱れる、、、、、そして時は夏へと移りゆく、、、、

 やっと休めたお休みもお部屋探しに明け暮れて、時間ができると、教会の鐘を聞きながら、
セーヌ河畔を散歩しながら、、、、冬の暗いパリも本を読みながら、、、。
そして時には美術館や音楽会にいったりと、、、
だんだんにパリの生活に慣れていったのだ。

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2008年7月14日 火曜日 
"Le Quatorze Juillet"=マイ・バースデーイヴに、、、

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2009年9月4日 金曜日 晴れ後曇り、夜半に少し小雨
大正生まれの男性二人に魅了されて

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2009年10月30日 金曜日 晴れ
☆回想のわが巴里>>暗い朝に冬のグレーの空のパリを思い出して

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 早い内にMUSTを終わらせてしまおう。
何本かの電話をして滞在中の予定を決めてしまおう、、、。
う~~?
メールをしない母のためと、友人たちの連絡のために、少し前に海外でも使える新しい<らくらくフォン>にしてあったが、
これがうまくいかない。

初日からこうでは困ったことになる、、、日本で万が一の時のためにメモしてもらっていたドコモの巴里支社に行くことにした。
今回は最初に二日間にアポをいれなくて正解だった。
風邪薬をもう一回飲んでまず近くのPTTに切手を買いにでかけた。

 雨に濡れた枯れ葉を踏みながら、、、まさにこれぞ巴里!

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06 December 2011 Paris, Boulevard Haussmann
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a0031363_19182011.jpg (アローアロー、、、携帯の人、、、電話のキャビンで話す人、、、、、まだまだパリにはこの電話ボックスがたくさんある、、)

a0031363_19391669.jpg) (あらあんなところにチャネルの支店? と思って、、、、あっらら、、お散歩中のワンちゃんがカカですか?)


a0031363_1921181.jpg (ショーウィンドーはどこもここもクリスマスシーズンたけなわで、、、、)

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 郵便局といわれた建物は小さな銀行とフランスのPTT。それなのに満足が切手が打っていない。
日本の通常切手とおなじような無機質な小さな切手で、日本までは二十グラムまで八十九セント。
〝きれいな切手を探してください。たとえば五十セントと四十セントでも良いですから〟とお願いしても、それもないという。
入り口においてあったオランピアパリの記念切手六枚セットがプラス二フランを赤十字に寄付で、それももとめてあとは十セントをプラスすることにした。

 通貨がフランの時代にでていた美術シリーズの切手がなつかしい〜〜。
オルリー空港時代から、郵便局のおじさんと親しくなって、いろいろ集めたし、その後も巴里への旅の度に購入していた。
1995年のラフォンテーヌ没後300年を記念して2フラン80サンチームの切手シリーズが発売されたときなどは、
封筒に予め切手が印刷されていてそのまま投函できる<prêt-à-poster=プレタポステ>が、
わずか数ヶ月で五千数百万束、3億1200万枚を売り上げた記録がある。
あのイラスト封筒とお揃いのカードのラフォンテーヌの切手シリーズは、東京の我が家のどこかにあるはずだ、、、。

>>>続く、、、
そして今日の巴里、
06 December 2011 Paris
>>>
by pretty-bacchus | 2011-12-06 18:18 | ♧JourneyAbroad海外2011 | Trackback | Comments(6)

☆回想のわが巴里の街1965~1973  パリとの始まり
2011年12月5日 月曜日 その二 巴里着
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前ページからの続き、、、
2011年12月5日 月曜日 パリへ出発

 予定時間より早く着いたJL041便。
しかし、ナショナルキャリアーでない機は時としてそういうことになるのだが、駐機場まで暗い雨の空港の敷地を進み、
端っこの方に到着したのはその十五分後、そして一階に下りてリボンで区切られた卍のような柵にそって進むこと四十五分にして
やっとパスポートコントロールに着くことができた。
バゲッジも一番奥の三十番、また戻って四十番の先が出口というわけで、もうくったくた。
国際線なのに、荷物の検査も無く押し出されるようにタクシー乗り場についたのは、機が着陸してから一時間十分もたっていた。

 真っ暗な早朝なのに、タクシーのりばは手配のおじちゃんがいて、ワゴンタクシーをくださり、
一路雨のオートルートをひた走り始めたのだが、すぐに渋滞がはじまってしまった。
時計を現地時間にあわせて、六時五十分。
運転手さんはとても親切な太っちょのおじさん、ですまなそうに、こんなに朝早いのに事故ですかね、、、とか、
いろいろ話してくださる。
遅々として進まず、、、途中でペリフェッリク(外環状)に入るのをやめてもらって、懐かしのホテルメリディアンパリのある
ポルトマイヨーで降りてもらって、凱旋門をぐるっと回ってシャンゼリゼを下ってもらった。

 凱旋門ってやっぱりすごい存在感だ! タクシーの後ろの席からカシャカシャ、、、、。

a0031363_6522488.jpg  (この凱旋門に励まされて、泣きながら仕事場に向かったのは四十年前!<<<後日書いておきましょう)
(05 December 2011 Paris am8:12 Arc de Triomphe)

(タクシーの席の間から撮った動画はあとでアップできるかな?)




クリスマスイリュミネーションは夜だけのようで、四キロをくだってコンコルド広場へ。
ロンポアンからは両側ずっと<クリスマスの家>が続いている。

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a0031363_22392071.jpg(ようやく少し夜が明けてきたようだ、、、、冬のパリの日の出は遅い、、、)
 (05 December 2011 Paris am8:15 Place de la Concorde>

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 セーヌ川を右手にちらりと見ながら、ここをぐるりとまわって、左折してマドレーヌ寺院につきあたり右折。
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(05 December 2011 Paris am8:17 Place de la Madeleine >

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(05 December 2011 Paris am8:17 Place de la Madeleine >

キャプシーヌ通りの角のカフェドゥラペ、
(真夜中までにぎあっているこのカフェをこんなに朝早く通ったのは初めてだ、、、)

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(05 December 2011 Paris am8:19 Cafe de la Paix >

オペラ座を左に見てブルバールデイタリアンへ。
しばらくして左折してさらに左折でブルバールホースマンへでて、
すぐに左にまがった細い道のホテルに到着。
なんと空港から一時間四十分もかかってしまって、こんなことは長い巴里の経験では初めてのこと。
<想定外>のことでした。

 知り合いのホテルなので、前日は予約をさけてくれたようで、すぐにお部屋に入ることができてほっと一息、、、、。
今回は友人のステュディオと、友人のホテルにお世話になることにしているので、まずはここで一週間の予定。
        (以上タクシーのなかからの早朝の巴里のスナップでした)
〜〜〜〜〜〜

 それにしても冬の巴里は暗く寒い。
巴里に住み始めた最初の年はこの暗い冬がつらかった。
このグレーの空の冬の巴里が好きになったのは数年たってからだった。

 急にあの時代の暗いパリを思い出してしまった。
なにせ、凍った高速道路を運転してオルリー空港まで通わなければならなかったのだから、、、。
グレーの空の冬のパリは3時半ごろには暗くなりはじめる。朝も10時半ごろまではお日様の顔を見られない。
パリの西南のポルト・ド・オルレアンからオートルートを南に20分ほどでオルリー国際空港に着く。
(そのころは未だ成田空港もシャルル・ド・ゴール空港も存在しなかった)

朝一番の高速道路は氷がはり、ヴェルグラ(氷結注意)の標識が続く。
暗い朝に車のダウンライトをつけて(パリはアップは禁止なのだ)、凍りついたオートルートA6を南下して
数十分の道を仕事場のオルリー空港に通ったものだ。
滑りそうになって何度もハンドルをもったまま道の端によって止まり私の方が凍りついた。

 日本から到着するAF273便は午前5時頃の到着だった。
東京からのテsレックスが入ると、私たち駐在員は、特別アテンドのためにフライトが到着前に
空港について
機首までお出迎えをしなければならなかった。
(当時はもちろんメールなどはなく、航空会社ですら、唯一の通信方法が、カタカタカタと印字をしながら入ってくる
テレックスだったのだ)
わずか数人しかいない日本人駐在員であるし、女性は一人だったから、熱がでようが、
ガードレールにぶつかって車がぼこぼこになろうが、まだ暗い道を必死でハンドルをにぎらねばならない。

 日本からの朝のエールフランスの第一便のAF273が着く頃には、空港はるかに真っ赤な朝日が昇り始める、、、
日は昇る、あ〜今日もまた新しい朝がきた。大きく深呼吸して私の朝は始まるのだった。
シャンゼリゼ大通り121番地の二階のティケッティングカウンターに移るまでの二年間は、
今思うとなんと大きな可能性をもった歳月だったろうか、、、

 最初の冬は泣きながらのパリの毎日だった。花のパリであるはずが涙涙のパリであった。
選ばれて駐在員としての憧れのパリでの仕事だったはずなのに、、、、、と、何度も涙した。
でもこのくらいの寒さでは涙は凍らなかったのだ、、、、、、

 友人達の羨望と嫉妬さえかっての単身赴任のパリ、、、
その頃のパリは、萩原朔太郎の時代とは、はるかに違うが、やはりまだまだ遠かったのだ、
渡航の自由化がはじまってはいたが、まだまだパリは遠い都だったから、日本からパリの空港にお着きになるのは
各界で活躍なさっている方々が多く、それはそれは目を見はるような方々が多かった。

岸恵子さんや松本弘子さんや高田美さんはすでにパリに暮らしていて、
その次の時代を作った高田賢三さんや森 英恵さんがパリでの仕事を始める頃だった。
空港の出発VIPサロンではアランドロンやオナシスが静かに出発前のシャンパンを楽しんでいたり、、、
東和映画の川喜多長政、川喜多かしこご夫妻が、日本とパリを往復して映画のお仕事をなさり、
かしこ夫人はいつもお着物でなんとシックだったことか!
彼らがフランスから日本へ紹介する映画を見るのが楽しみになった。

團伊玖磨さんにお目にかかると彼の本を読み音楽を聴く、 外交官の大高さんがスイスに赴任なさると
スイスのことを知りたくなる、
三船敏郎がロケにくると、次の帰国の時にその映画を見る、 、、、、
外交官、芸術家、商社の方々、映画俳優、そしてお忍びの政治家達、、、と、おそらく日本にいたらあまり
お目にかかれなかった方々と、お話しする機会が増えて、そのお仕事関係のことにいろいろ興味をもったものだ。

 西洋の美しいモノを日本に紹介しようと、サンモトヤマの茂登山長市郎さんや、吹田貿易の会長に
お目にかかったのもこの頃だった。
そんな日本からのVIPの到着と出発のお手伝いをするのが当初は私の仕事の一部であった。

 まだ日本の新聞も本屋さんもない時代だから、葉書で関連本を父母に頼んで集めてもらい、
安い船便でパリに着くのが待ち遠しかったものだ。

冬の暗いパリも本を読みながら、教会の鐘を聞きながら、セーヌ河畔を散歩しながら、
そして時には美術館や音楽会にいったりと、、、

 ホテルずまいの後、冬が来る前にようやくアンバリッドの近くのアパルトマンを借りることができたのが、
17 Rue Desnouette Paris Paris 15 arrondisement
であった。

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 グーグルアースで、パリで住んだ三つのアパートメントにピンをうってみた。
 そのどれもからエッフェル塔がみえていたのが、よくわかる。

 あれはもう40年も前になるのだ、、、、、、
フランス語もおぼつかない私が突然の巴里駐在員に任命されて、
あれよあれよというまに巴里で仕事をすることになったのは、、、。

 人類初の月面到着から36年。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。
月に兎がいると信じていた子供のころの思いはかなく、月から送られてくる映像は、ごつごつとした石ばかり、、、。

 この日私は午後の機で東京を発ち、四度目のパリ行きの旅路についた。 
出発の羽田空港(当時はまた成田がなかったのです)は、アポロのテレヴィの中継を見る人でごった返していた。
万歳!ばんさい! その万歳三唱は、アポロの月到着を祝うのではなく、私がパリへ発つのを見送りにきてくれ
た十数人の友人達と両親兄弟が全員手をあげてお祝いをしてくれているのであった。
海外への旅が自由になってまだ数年しか経っていたかった当時は、外国に旅発つというのは珍しく大変なことであったのだ。
母は涙をかくせずに、でも、にこにこと手をふっていた。

月に人類初到着のニュースで送られた私は、その興奮が機内に残るまま巴里に到着した。
パリでも空港のテレヴィはそのニュースでもちきりだった。

 そしてこの日から、私のパリ駐在員3年8ヶ月が始まった。それは涙と感動の二十代の若き日の経験であった。
慣れない仕事に疲れ果て、ホテルに帰ってドアをしめると崩れるように座り込み
崩れてしまっていた、、、、

 英語科だったから、フランス語は第二語学で不十分、その後の日本経済台頭のまだまだ前だったから、
“日の出ずる国>からの女性駐在員は、それはそれは大変だった。
最初の数ヶ月は、テレビもない冷たいホテルの部屋で、一人涙に暮れたことが何度あったことか、、、

あのころ、、、、、
あの頃も今もいつも、わたしは必死で戦っていた、人生というまか不思議な魔物と、、、、。
あの苦しい体験と、それを乗り越えた自分自身の自信と強い思いがなかったら、その後の私は、
また別の路を歩んでいたことだろう、、、

そして、これでもかこれでもかと襲ってくる人生の苦境や、まさかの坂に負けそうになりながらも、
生きることを楽しむことは出来ていないだろう、、、

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満月の 月の兎は 今はなく

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2011年12月12日 月曜日
記念日は アポロ11号 月に着く
2004.07.22
 人類初の月面到着。1969年7月21日、日本時間午前5時18分。この時私は三度目のパリ行きの機内にいた。 

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