2011年 12月 16日 ( 4 )

☆回想のわが巴里の街 ~ルーヴル美術館の思い出1995
2011年12月16日 金曜日 雨雨雨の巴里 その三
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 あと三日を残すだけ、、、かたずけモノはいっこうに片づかず見て触って読んで、、、、、
これでは何年あったって終わらないなってため息をつきながら、でもどこかでほくそえんでいるような、雨の巴里の午後。

書類の間からすべりおちた数枚の原稿と、雑誌のコピーに釘付けとなりました。
1995年2月に行われた朝日新聞事業の催し物のあとに書かれた旅行関係の雑誌の記事のコピーでした。
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 朝日サンツアーズの柳澤社長と、最初に旅をしたの1982年でした。
エールフランス&メリディアンのご招待で、ツール、パリ、そしてコンコルドでニューヨークへ飛んで、
ニューヨーク、ボストンとホテルを見ていただく旅で、日通とあフジタトラベルとか数社の社長さん方もご一緒でした。
その後、朝日サンツアーの旅のお仕事のお手伝いをいろいろさせていただき、歴史の旅、美術の旅の企画をいろいろ
企画発信が出来、交友が続いていました。

〜〜〜〜〜〜〜〜

 1980年代後半から1990年代は、私の人生で一番華やかな十数年間であったと思うのだが、
なつかしい思い出の一つが、朝日サンツアーズの催しの講演会に引っ張り出されたことだった。
突然に柳澤社長からお電話をいただき、朝日サンツアーズ 創立25周年記念行事の講演会に、
樺山先生と千束先生と一緒に壇上で、ルーヴル美術館の楽しみ方を話して欲しいと依頼された。
固持に固持を重ねたが、ダメだった。
まあ、要するに誰が女性が<華>として壇上で一緒して欲しかったのだろうが、私は悩んだ。
しかしとるモノもとりあえず巴里に飛び10日間をルーヴル美術館詣でをしたのだった。

 1995年のパリの最初は2月初めの一週間だった。
パリ市内の主要美術館は受け持ちのコレクション年代毎に役目が分けられている。
ルーヴル美術館は、古代から1848年までの作品が主要コレクション。
設計は関西空港のターミナルビルを手掛けたレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャーズ。

壮麗壮大な旧ルーヴル宮殿の中は迷子になりそうに広く、一日〜二日で2万6000点を回り切ることは
とてもできないし、
何度いっても何か新しい作品が目に飛び込んでくるようなのだ。

 以下は、そのころの記録メモが残してあったので、この機会にアップしておこう。

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☆ 企画書&案内書:
 朝日サンツアーズ 創立25周年記念行事
* ルーヴルを語りパリを歌う * 
  トークショー”ルーヴル美術館の楽しみ方”
       平成7年2月15日 午後二時半

*出演者樺山紘一(東京大学教授)
千足伸行(成城大学教授)
片桐敬子(元エールフランス・パリ駐在員)
柳澤保雄(朝日サンツアーズ社長)
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この企画に出演依頼を受けたあとすぐに
私は、ルーヴル美術館の勉強をすべく、パリへ飛び、毎日通った。

その時に現地で書いたメモがいくつもある。
(旅を楽しむ立場から、いつもの旅をつくる立場に、戻ってしまっている。)
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2月15日に向け、ルーヴル美術館を見るのが今度の主な目的。
久しぶりに、まじめに勉強している感じてある。
 
ルーヴル美術館メモ(1995現在)

19世紀前半までの作品
(他はオルセー&ポンピドー)

様々な作品系列
ー 西洋美術を歴史的に  
ー 保守と前衛
ー 絵画、彫刻、工芸、全般

ー 7つの部門及び、ルーヴル美術館の歴史よりなる。
1; 古代オリエント・イスラム美術
2; 古代エヂプト美術
3; 古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術
4; 絵画
5; 彫刻
6; 美術工芸(工芸品が増えて、充実)
7; デッサン・版画

ー 地域区分
シュリー、ドノン、リシュリュー床面積2万2千m2、178の展示室

ー 階数>>三階、二階、地階、中地下一階、受付け階

ー 区域>各階は10に分かれる。

ー エントランス
・ピラミッド
 ・パレ・ロワイヤル
 ・リヴォリ99
・ジョジャール門

= まず、その臨場感ーガラスのピラミッドから、カルーゼルの凱旋門、
  コンコルッド広場、さらに勾配を加え、凱旋門からアルシュへーーー
(今や、この界隈は、一つのパリの新名所である。)
(新しい植林が始まっている)

= そこには、フランス人の見事な国民性がみてとれる。
保守的といわれる、フランス人が常に、時代時代に新しい息吹を受け入れている、

= 1981ーミッテラン、1993に委員会ができ、中国系アメリカ人のイオ・ミン・ペイが選ばれた。
ピラミッド、吹き抜け、エスカレーター、壁の色
さらに、サンジェルマン・ロクセロアからコンコルド広場までの40haの改築
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ー 地階のPTTは、最高・ルーヴル美術館でしか買えない切手がたくさんある。
ー 本や、絵はがき、ポスター、貴金属
ー 逆ピラミッドの下ー7500m2の4つの多目的ホール
ー 銀行、おみやげや、小物、化粧品、レコード屋、等、8300m2
ー グループの時はあらかじめ各自の見たいものを聞き少人数に分けた方がよい。

ドノン、シュリー、リシュリューに分かれる。
イヤホンーンガイドも可。
ー 階数は、フランス式に覚える。
ー 20フランの贅沢(MUSEE PASSE)
ー クロークは2箇所ーリシュリューとドノン(無料)

〜〜〜〜〜
見学の仕方。
まず、リシュリューのエレベーターで三階へ、(60秒)
自然な天窓採光
光は絵を優しくなぜながら絵を傷めないように、天井の大きな十字架に似た装置によっ巧妙に調節されていて、
高度の過度の変化を補正するために、人工補助証明も利用されている。
明るい色の寄せ木ばりが使われ、壁に沿って添木と調和された石の細い帯が境界に境界に使われ、
壁は薄いベージュ、
その他の色はたとえば、
  フランス絵画;薄いベージュ
  北方絵画;濃いグリーン
ーメヂティの部屋; グリーン
ーアングル; ベージュ
ードラクロワ;くすんだ赤
ールソー;くすんだ赤
ーコロー;薄いレンガ色
ーレンブラント;濃いグレー(少しボルドーがかった)
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過去の私の経験から:
1、35年前のサモトラケノニケ
(彫刻は、CDでは、ダメ)

2、駐在時代の、エヂプトのお棺の冷たさ

3、そして、やはり、モナリザ

今回一番印象に残ったのは、フラ・アンジェリコのエンジェル

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ルーヴル美術館見学記

第一日目:1月28日(土)ドノン
寒い中を待つこと10分ほどで、ピラミッドより入る。
インフォメーションで、いくつかの情報を得る。
ドノン、シュリー、リシュリュー。今日はドノンを選ぶことにする。
ともかく広い。
2月15日に向け、ルーヴル美術館を見るのが今度の主な目的。
久しぶりに、まじめに勉強している感じてある。

ドノン、シュリー、リシュリュー。今日はドノンを選ぶことにする。

まずは、サモトラケの勝利の女神へ進む。
久しぶりの対面!
いつものように、昔のほうが、大きく感じる。
すぐに、右に折れると、なんと、すぐ左に、ヴォッティチェ里の<春>が!
あとは、イタリア絵画が絢爛豪華に続く。
ダ・ヴィンチのいろいろも。
モナリザのまえは、大きな人だかり。

カナの婚宴の大きさと描写に再び。
帰り際に、小さな、作品を発見。
 フラ・アンジェリコのエンジェルであった。
 木版に金彩・ブルーの羽と、ピンクの衣服。37x 23の素晴らしい小品であった。
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マリー・ド・メヂシスの24枚の歴史画 ールーベンス

 1;マリー・ド・メヂシス自身がNr.1
3;誕生
5;ライオンにのった子ども
10;マルセイユ到着

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絵画の歴史;中世
最高位;宗教画
    歴史画
 寓意画
 肖像画
 生物画
 動物生物
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第二日目;1月30日(月)リシュリュー
二週間パスですぐに入り、リシュリュー館にまず。

◆ クール・マルリー 、クール・ピュジェにてフランス彫刻を堪能。
 ー ディアナの供
 ー マルリーの馬
 ー フィリッポの墓標

◆ 古代オリエント・イスラム

 ー サンルイの洗礼盤が見事であった。
 ー 人頭有翼の雄牛像
 ー ハムラビ法典
 ー シャルル禿頭王の聖体拝領皿
(17CMの小さな美しい皿)

◆ オランダをフランドルの絵画

 ー ルーベンスのメディシスの連作は見事である。(24点)

 ー レンブラントに圧倒される。ーバロック17世紀
   (19の作品がところ狭しと、ひとつの小さな部屋に)

 ー フェルメールのレースを編む女は、小さく可憐な作品。

 ー 6時からあいたナポレオン3世のアパルトマンを見学
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(1月31日(火)は休館)

第三日目;2月01日(水) シュリーよりリシュリューへ

館内に大分慣れてきた。

 シュリーより入り、古いルーヴル美術館の原型を見る。
 女像柱の間。
 さらに、古代エヂプト美か
(その昔に、そっと頬を寄せて、その冷たさに触れてみたあの石棺はどこにもみあたらなかった。)
 ー 書記胡座像

 ー 久々の、ミロのヴィーナス、妙に冷たい感あり。

 夕日のクールキャレを、見ながら、リシュリューの絵画へ。

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第四日目:2月2日(木)

さすがに疲れて、今日はゆっくりと。
コンコルドから、チュイルリー公園を抜けてカルーゼルの凱旋門を抜けて、ピラミッドへ。
ナポレオン広場の、本屋やブティックを散策。

第五日目:2月3日(金)

午後、リシュリューより入り、シュリーを一回りし(6、600歩)。
すごいの一語につきる。
なかでもやはり、マリー・ド・メヂシスの24枚は圧巻。
黒い縁、緑の壁、更に濃いみどりのダイリセキの縁取り。
あらためて。Iからゆうくりと見て回る。

第六日目:2月4日(土)

午後、ドノンより入り、サマトラケ、右に曲がり、ヴォッティチェリーの後、ダビンチの、イロイロ、
モナリザ、そして、あのエンジェルへ。

地下一階に戻り、リシュリューへ入る。
<メヂティ>のあと、レンブラントーーー濃いグレーの壁

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第七日目:2月5日(日)

 ルーヴル美術館での参考書などを購入
 ゆっくりとお茶、

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参考書

1 ルーヴル・美と権力の物語 小島英ひろ丸善
2 絵の話 伊藤廉 美術出版社
3 私の西欧美術ガイド 宗左近 新潮選書
4 絵画の読み方 西岡文彦 宝島社
5 二時間のモナリザ 西岡文彦 宝島社
6 歴史のなかのからだ 樺山紘一 筑摩書房
7 絵画を読むーイコノロヂー入門 若桑みどり NHK
8 マニゲリスム芸術論 若桑みどり ちくま学芸文庫9 
  フランス絵画と文学の心       小沢コレクション
9 西洋美術史小事典(改訂版)j.s.ピアス  美術出版        
ーーーーー

これから求める本
ー 西洋美術解読事典     j.ホール   河出書房出版
ー イメージ・シンボル事典  アト・ド・フリース大修館書店
ー イコノロギア・図像学事典 リーバ・水之江有一岩崎美術社

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ルーヴル美術館で求めた参考書

1 時間のない方のための見学ガイド
2 LOUVRE 主要作品
3 LOUVRE 見学案内
4 大ルーヴル美術館・コレクションと新しいスペース
5 ルーヴル美術館ヨーロッパ絵画
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(このあとの記録メモはなく、いつパリを発ったのかは書かれていない)

帰国後:

当日の樺山先生のお話しのスライドの絵画がわかった。
これらも下調べをしておかねば、、、。
樺山先生の10点 (下線ー確認済み)
 1、  ランベール兄弟 {ベリー公のいとも華麗なる自祈書}

 2、  エヂプト書記官座像

 3、  メソポタミア人面有翼雄牛像

 4、  ミロのヴィーナス

 5、  ルイ9世の王冠

 6、  クールベ ー フランソワ一世像

 7、  アヴィニョンのピエタ

 8、  ジョルジョーネー 田園の合奏

 9、  ルーベンス ー マリー・ド・メディシス

10、  ホルバイン ー エラスムス像 

ー 前庭ピラミッド
ー カルーゼル凱旋門

_______

千束先生の10点は記録していなかったようだ。

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マックで記録をつけていたので、こんな風に残っていたのだ。
おもしろいあーカーブとなった。
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(December 2011 Paris , Pyramide du Louvre)

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(December 2011 Paris , Pyramide du Louvre 冬の日没は早い、、、、次々に灯がともり始める頃の空は美しい、、、、、、)

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December 2011 Paris , Pyramide du Louvre, Pavillon SULLY)
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そして
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そして今日の巴里、
16 December 2011 Paris

by pretty-bacchus | 2011-12-16 23:59 | ♧Journey海外2011PARパリ | Trackback | Comments(4)

今日の巴里 16 December 2011 Paris
平成23年12月16日(金) 雨雨雨の冬の巴里 その四a0031363_21252852.gif
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そして今日の巴里、
16 December 2011 Paris


 実は体調はかなり悪い。
先週の土曜日にお風呂で転んで打った左胸はまだ痛い、咳をしてもひびいていたい。
そのせいかどうかはわからないが数日前から下血がひどい。
お腹の調子もあまり良くない。

 朝食もジャンボンドゥパリもやめて、近くのお店で簡単なテイクアウトや知り合いの日本料理屋さんで
お昼をかねたかけうどんが一番ほっとしたりしている。

 寝ていれば良いのだろうが、そうもいかないのは<旅人の巴里>。
やっぱり私は巴里の住人にはなれずに旅人のままなのだろう、、、と静かにここ数日思っている。
そして今の巴里の状況を思うとき、むしろその方が幸せな気がし始めている。

欧州の経済が悪いということだけではなく、ここ十数年で巴里に住む日本人には大きな変化があったようだ。
夢をおってフランスに来る日本人はますます多くなり、活躍している人も沢山いて、
今やパリの星付きレストランのスーシェフ(セカンド)は、ほとんどが日本人だというし、
また日本人がオーナーとしてオープンして成功しているお店も沢山あるという。
その反面でデラシネ的な人も多くいて、まっとうに正しい職業をもたずに<パリゴロ>になっている人も多いという。
そういつ輩は、日本からやってくる同国人=日本人を狡猾な方法でだまして平気な顔で<パリの住人>をきめこんでいるのだという。

横光利一の<旅愁>の頃の巴里ではもちろんなく、萩原朔太郎の「旅上」のあの詩の時代のパリではなくなってしまったのだ。
「ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて
 きままなる旅にいでてみん」

今回も四十年前のことを少し語り始めてみたりするが、誰もがきっと親身にはなって聞いてくれないだろうし、
そんな他人様のことはどうでもよく、きっと自分たちが生きていくのに精一杯なのだ、、、思う場面もあったりした。

 いつか読んだことがある松岡正剛さんの数行:
<パリを歩くと困ってしまうのだ。そこがボードレールやヴァレリーの街であり、ナタリー・バーネイやジャン・コクトーや
ココ・シャネルの街であることが困るのだ。それが東京の下町を歩いて、そこは永井荷風も葛西善蔵も辻潤も
見えなくなるほど光景が様変わりしているというならまだしも、パリはほとんどが元のままなのだ>

ほんとうにそうなのだ。四季が変わり時代が変わって、人々の生き様もどんどん変わっても、石の文化と、
その後の行政が造り上げたパリの堅牢な建物と道はそのまま残り、そこに住んだ過去の栄光の<陰>が
ずっしりと居住している巴里!

それ故に、私たちはエトランジェを決め込んで、しばしのあいだその空間に同居したら良いのではないかと、
心から思うようになってきてしまっている。
人生という短い旅の、そのなかの一瞬の<パリへの旅>をなにげなく楽しむことが極意ではないかと、、、、。

 そして今パリでは中国人がた〜くさんいて、サンフランシスコとかと同じように闊歩して歩きそれが我が物顔なのだそうだ。
日本人のように謙虚な姿はゼロで、たとえば三つ星レストランにいっても服装はもちろんのこと、
高いボルドーワインをコカコーラで割ってわーわー騒いでいるというのだから、
そしてそれを受け止めているフランスがあるのだとういう。

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a0031363_749212.jpg (かなり青空が出てきた、、、、)

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a0031363_7501951.jpg  (四十年前のお店で残っている香水やさんはこのKAMSだけだそうで、、、当時のことが思い出された。


 晴れたのを見はからって、今日の午後は少しだけNKさんの<幻の巴里探し>
http://k7003.exblog.jp/12230668/
NKさんの<幻の巴里探し>は、まだ一つしか出来ていない。
あのポトフもお店も、クリスマスイリュミネーションの二階の妖しき窓も、写真画廊も。

 ひどい雨があがって午後に用事をたしにでかけた。
Jさんの処へご挨拶をしたいし、Kさんとあって、、、エトセトラ。
選んだ道はオペラ通りをセーヌ川に向かって進み、左に曲がったモリエール通り。
あ!写真画廊があった、カシャッ!こっちにも、、、カシャッ!
でもどちらもNKさんの写真画廊と違うことはあきらか。

巴里で最初の日本料理屋さんのたからもまだあって、ご主人はもう80歳をすぎたという。

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 モリエールの大きな像を当たり前のように撮ってUターン
なつかしい〜〜〜〜〜。巴里で最初に泊まったホテルはこのリシュリュー通りだったのだが、今はそのホテルの外観はなく、次に泊まったホテルドゥルーヴルに突き当たった。
ホテルもどんどんチェーン化して変わってきているし、次の巴里ではどうなっていることか?
今お世話になっているホテルも友人があと一年半でやめるので、次はどうなるかわからない。
ハードとソフトとそして人の繋がりの三つあってこその巴里の宿。

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 今回は回想のパリを書いていて、あと数日で今回の旅の終わりとなって今考えていることは、次回は<リルケの巴里>にしてみてもよいではないか、、、。それは死のあこがれと覚悟、、、。
「人々は生きるためにみんなここへやってくるらしい。しかし僕はむしろ、ここでみんなが死んでゆくとしか思えない」という<マルテの手記>が妙に
生々しい。

 F・スコット・フィッツジェラルドの短篇小説『バビロン再訪』の時代設定を第2次世界大戦後に移して映画化した<雨の朝巴里に死す>でもよいか、原題:The Last Time I Saw Paris。
詳しい内容はよく覚えていないが、心に反して口論をしてしまい、それでも雪の朝に家にたどりついたが、鍵がかかって入れずにそのまま寒い氷雨の降る巴里の朝に異国で息を引き取る役をした、あのエリザベス・テイラーの美しかったこと!
今回も続く雨はその予兆なのかとさえ思えてしまう巴里の雨雨、、、、。
 
by pretty-bacchus | 2011-12-16 23:59 | ♧Journey海外2011PARパリ | Trackback | Comments(2)

☆回想のわが巴里の街1980~1990 エッフェル塔100年記念
2011年12月16日 金曜日 雨 その二
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 不思議な巴里の滞在だ。雨に恵まれ?回想のパリはまたとない思考の巴里となり、、、、。
その上体調の悪さで、アポイントメントをキャンセルして少しゆっくりできている<冬の巴里>

 1987年にメリディアンチェーンを辞めた私は、手術を無事生き抜いたたあと数ヶ月呆然としていた。
大きな事件に巻き込まれた故でもあったが、仕事人としての二十数年にも疲れ果てていたのだろう。

 身内の会社のウィンタースポーツ用品の開発&輸入は大きく成長して、
トニーザイラーさんやヘルムートさんスターンさんなどオーストリー、スイス、イタリーでの知人もできていった。
弟が経理と総務を守り、ミラノに駐在事務所を出したのもこの頃で、従兄弟が初代駐在員、
ついでオーストリーのザルツブルグにもと大きく発展していった。

 そして1987年には創立十五周年のレセプションを企画して、それまでお世話になった方々をお招きした。
400人へのご招待状だったのだが、なんと500人近いお客様がいらしてしまって、大慌て、、、。
ゲストは、トニーザイラーさん、パリの三つ星ジョエルロブションのシェフソムリエ、
シャトーカデボンのガンス夫妻、そして日本語でのワインの説明は、田崎さんという顔ぶれて、
彼らに一目会いたいと、招待者の友人達が遠くからかけつけてしまったということだった。

ニューオータニの一番広いお部屋とフォワイエを借り切っての夕べは、
まだ日本ではあまり飲めないようなボルドー&ブルゴーニュの美酒が振る舞われた。

仕事が順調に伸びたのは、右肩上がりの日本経済におうところも多かったのだろうが、
天地人にも恵まれたのだという、その日の主賓のA社の鬼塚社長のスピーチが印象的だった。

事務所には、銀行の支店長クラスの方が日参して、やがて自社ビルを造ることになっていった。
日本中がそんなふうに右肩上がりの時代だったのだ。

 しかし>>>好事魔多し。(つづきは、☆回想のわが巴里の街1990~2000へ

 八十年代最期の年は、1989年6月4日には天安門事件が起こって世界は新しい波動が起こっていた。

 この十年の最期の最高の思い出は、遠い昔の方との再会!
それは、巨人の長嶋茂雄さん!高校の大先輩の巨人軍の長嶋茂雄さんと再会したことだった。
それも巴里での1989年のパリ祭で! 

最初に長島さんにお会いしたのは、彼が巨人軍で活躍しているときで、母校を訪問したおり。
男子校で少ない人数の女史のなかで雅子さんと私が選ばれて、週刊誌の写真撮りが行われて、
花嫁候補と騒がれたりしたのだった。
その後は、十年くらいがすぎて巴里でであった。
長島さん達巨人軍の選手の方とは、70年代に巴里でお食事をご一緒させていただいていた。
その当時は、セリーグの巨人が優勝すると、エールフランスがスポンサーでパリに選手がご招待された頃だったのだ。

 そして、またまた十数年たった、1989年の7月。
それを遡る200年前の1789年、パリ市民がバスティーユ監獄を襲撃占領し、多くの政治犯を解放したこの日が
フランス革命の始りで、日本で「パリ祭」と呼ばれているのは、ルネ・クレール監督の映画
"Le Quatorze Juillet"(7月14日)の二度目の邦訳名が『巴里祭』だったことに因むのだが、
やはり平和な時代には革命記念日よりパリ祭があっているような気がする。

 そしてバスチーユの百年後1889年に、記念として建てたれたのがエッフェル塔。
フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるコンペティションが開かれた。
ギュスターヴ・エッフェルほか二者の案が採用になった。

 1789年のフランス革命二百年、エッフェル塔の百年記念の
その二つのお祝いが華やかに行われて有名人が巴里に招待されていた1989年7月。
例年のように、フランス空軍が誇る機種がパリの上空を飛ぶ7月15日。
パリ祭と言われるこの日は、私の誕生日と重なり、しばし生の喜びに浸っていたわたし。

私の生まれた7月15日(パリ時間の14日午後6時)は暑い日だったという。
フランスに西洋に憧れていた父の願いがかなって、娘はパリでの祭りの歓喜の頃に、
此の世にあらわれたのだろう、と勝手に思っていた。
(その父は一度もパリにはこずに、何度招いてもうんといわずに、その代わりに、
母が何度もパリを楽しむことになった、、、)

 長島さんを巴里のレストランでお見かけしていて、会釈だけしたのだが、偶然にも東京へお帰りの
飛行機の
ファーストクラスで一人の席にいらした彼にお目にかかっていろいろお話しすることができたのだ。
高校の野球部の井原先生のことなどもお話しして時をすごした。

〜〜〜〜

 そして、80年代最期のハイライトは、1989年11月のベルリンの壁崩壊で、世界は大きく舵を取られはじめたのだ。

四十代後半になっていた私の人生もまた大きく最期の花を開きはじめていた。

〜〜〜〜
このブログでアップしたエッフェル塔のいろいろを、、、、
エッフェル塔の四十年前から、

 最初の巴里の1966年6月に、、、、、
1966年と言うと四十五年前? 
初めての巴里で、トロカデロ広場でエッフェル塔をみて思わず走り、四角い石にひょんと飛び乗ったら、その先はなく、、、、。
最初からそんな驚きの巴里への旅だったのです。

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 そして、ミレニアム2000年をさがのぼる832日前の記録があるが、データは残っていない。
幸いにもエールフランスの機内誌のスカイブティックに使ったものが残っているので、、、
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そして
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(二十一世紀を前にエッフェル塔にはカウントダウンの光が入った)


ミレニアム2000年のカウントダウンの
1990年代最期の、夜のパリの大好きな一枚は、
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(好きな写真の一枚。1999年12月、西暦2000年まであと22日とエッフェル塔に灯がともる。
メリーゴーランドが回って人々を夢に誘っていた、、、。
(この時代のコンタックスツアイスレンズで、夜に手持ちで一瞬のこの写真を撮るのは至難の業だった)

エッフェル塔にダイアモンドイリュミネーションが輝きだしたのは、ミレミアム2000年を過ぎてからだった。
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  2000年の12月からダイアモンド照明がされ、二十一世紀へのカウントダウンがはじまった。
(夕闇のトロカデロからシャイヨー宮、アンバリッドなどがのぞまれる)
(最初のデジカメ200万画素でも、こうしてなつかし記憶と思い出になる。
一瞬の写真が長い間の記録になり、のこされていく、、、、、やっぱり写真は素晴らしい!

そして、一枚前のショットは前日の2000.12.17 の真夜中のパリの光り輝くエッフェル塔の一枚でした。

 写真って楽しい〜〜〜そしてデジカメ時代の写真って凄い!
写真の記録は記憶を甦らせ、時に希望の光を放つのだ!
 
a0031363_814599.jpg  (毎時5分〜10分だけダイヤモンドイリュミネーションのエッフェル塔の年齢は? )
(21 Dec,2008 Paris)

http://keico.exblog.jp/8948153/
2009年9月10日のブログ


http://keico.exblog.jp/9435668/
エッフェル塔は御年120才
2009年12月14日 月曜日 曇り後晴れ

2008年のエッフェル塔h、EUの数の☆が輝くブルー
http://keico.exblog.jp/7770647/
遡っての巴里の記録 七日目

http://keico.exblog.jp/7770652
遡っての巴里の記録 七日目 その二

a0031363_18101427.jpg  (Dec 2008 Paris =友人から送られた写真)


http://keico.exblog.jp/7770647/
2008年12月21日 日曜日のブログへ
遡っての巴里の記録 七日目 12月21日

遡っての巴里の記録 七日目 12月21日続き
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(21 Dec,2008 Paris アレキサンダー三世橋の像と遠方のエッフェル塔を多重でトライ)

http://keico.exblog.jp/7770652

遡っての巴里の記録 七日目 12月21日の続きで


 そして、今回のパリのエッフェル塔です!!

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 (16 December 2011 Paris, La Tour Eifell à Pont Alma )

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(La Seine et La Tour Eifell à Pont Alma)

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追記;今回の巴里のエッフェル塔をいくつか

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続く、、、
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そして今日の巴里、
16 December 2011 Paris




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 追記;
そして二十一世紀のエッフェル塔は、
JourneyAbroad旅海外2005
JourneyAbroad旅海外2006
JourneyAbroad旅海外2008
にたくさんある

More>>ブログの検索で<暗い日曜日>の一部
by pretty-bacchus | 2011-12-16 23:58 | ♧Journey海外2011PARパリ | Trackback | Comments(2)

☆回想のわが巴里の街 Memoires du Voyage Paris 1990~2000ー三つのシュヴァリエ
2011年12月16日 金曜日a0031363_21252852.gif

☆回想のわが巴里の街 Memoires du Voyage Paris 1990~2000ー
三つのシュヴァリエ・ドゥ・タートヴァンなど


 昨日のムラック氏との夕食はすばらしい一時だった。
パッサージュ53のお料理ももちろんだが、彼によって選ばれたワインの数々に官能の時をすごしていた。
そして彼の持つ大きな人間性と知識の層の深さに脱帽していた。
ワインを知ってからほぼ半世紀にならんとしている今、このような至福の時をいただいていることに多くの感謝をしたい。

もし私にもっと才能があったなら、グルメ論でもなく、もちろんワイン論でも経営学でもなく、
いわんやミシュランの☆をいかにとりそれをキープするかでもなく、トータルコーディネーターとして、
自然と人と食の和をどんな風に創り、給し、<人々をどんな風に幸福にするか学>とかいうジャンルの論文を
書けるかもしれないのに、、、と、才能のなさを悔いたのである。

 長い人生の間に、実はわたしはワインとの関わりの中で、三つのワインの騎士の称号をいただいている。
長いあいだフランスワインの輸入と、そのワイン文化を日本に紹介したという自負はあるが、
これもまわりの人々の理解と、多くの方々のご縁をいただいてのことだった。
しかしいったいそれがなんなのだ! と、、、妙に沈んでいく冬の巴里の夜だ。


 エールフランスを辞める頃には、連れ合いの会社では仕事が大きくなり、また洋酒部も数人のスタッフで
フランスの造り手のワインをいろいろ輸入し始めていた。
1980年代後半から1990年代にかけては、造り手を回る旅が始まっていた。

八十年代後半にはかなりのクラスの造り手をあつかうようになっていた。
そして九十年代初めから、ご縁ができた造り手を一人一人訪ね歩くようになっていた。
冬の雪をかぶった葡萄畑、一年にほんの二日ほど葡萄の花をつける時期に、
そしてヴァンダンジュの時期に、、、と訪ねることで交友が深まっていった。
そんななかで、自然をたっとびながら葡萄を育て、まじめな醸造法でワインを造る造り手を選んで、
日本への輸入をするようになっていった。

 そして九十年代前半1992年には、女性では日本では数少ないブルゴーニュのワインの騎士の
<シュヴァリエ・ドゥ・タストヴァン>を受賞して、クロ・ドゥ・ブジョウの十一月の祭典
<トゥロワ・グルリューズ>という三日間の催しに参加していた。

 11月の栄光の三日間といわれる、慈善オークションから始まる催しに私は招かれていた。
クロ・ドゥ・ブジョウの城での受賞式は生涯の思い出になっている。
500人ほどの招待客と、すでにシュヴァリエの世界中からのお客様、そしてその年の受賞者が数人。
赤と金のユニフォームの音楽隊が笛を鳴らして儀式は始まる。
一人一人の経歴と受賞理由が発表されて、カイエドール(黄金のノート)にサインを求められる、
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そしておごそかに、騎士へのお言葉が唱えられる。

<葡萄の創造主ノアの名のもとに、酒神バッカスの名の下に、そして造り手の守護神
サン・ヴァンサンの名のもとに、何時にシュヴァリエ・ドゥ・タートヴァンの称号を授与する> 
<Je vous nomme CHEVAIER DU TASTEVIN>
ラッパ隊の高らかなファンファーレがピタリとやみ、沈黙した参加者達の熱い眼差しが見守る中、
葡萄の樹の根で造られた杖で、右肩、左肩、そう一度右肩と力強く杖が動く、、、
新しいワインの利酒の騎士に誕生です。

この模様は、エールフランスの機内誌の、ブルゴーニュに書いたことがあった。
http://keico.exblog.jp/13208454/
2011年8月4日 木曜日 その二
ブルゴーニュの栄光の三日間<トゥロワ・グロリューズ>

(栄光の三日間の部分の拡大)
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四ページの最期のページには、私の写真が密かに載せられた。

 ワインの騎士の称号をいただいた時には、日経を始め取材の申し出があったのだが、
私はかたくにお断りしていた。
目立つのが怖かったし、この称号は私一人にいただいたものではなく、
それまで私にワイン文化の薫陶を与えてくださった多くの方や回りの方々のおかげとおもっていたからだった。
今でこそかなりに日本人がいただいている勲章だが、当時のそれも女性は希少価値だったのだ。
記念写真と、小さな金の騎士のバッジと一緒に後日送られたきた、私の隠れた宝物になっている。

http://keico.exblog.jp/7735443/
2008年12月13日 土曜日 のブログへ
旅の支度に満月を忘れて、シュヴァリエ・ドゥ・タートヴァンなど

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 もう一つは、1998年にいただいたボルドーのコマンダリー・ドゥ・ボンタン。

仕事のあとの数日をパリで少し過ごしていたときに、東京から連絡が入った。
ボルドーの市長さんのアランジュペ氏と友人の女性助役から東京の事務所に電話があって、
至急ボルドーの助役さんに連絡するようにと。
数日後のコマンダリー・ボン・タンの受賞儀式に参加するようにというお誘いだった。
アメリカの現代アートのアーティストと私が、ワインの騎士の称号の
Commanderie du Bontemps de Medoc et des Graves de Bordeuax 
コマンダリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーブ・
ドゥ・ボルドーの称号を
授与されることになったというのだ。
青天の霹靂とは悪きことばかりをいうのではないかもしれない。

 そして、翌日パリからボルドーに飛び、
シャトーランシュバージュにての荘厳が儀式のなかにいた。
ミシェール・カーズ氏のシャトー・ランシュ・バージュは、現代アートの噴水があり、
庭園ではすでにレセプションが始まっていた。

 荘厳な笛の音と共に始まる授賞式には、
重いワインの騎士のガウンを羽織るので、にわかあつらえの服装と、小さい日本人は、
その中にすっぽりと収まってしまった。
壇上で、つがれたワインのコメントをしなければいけなかったのだが、
それも型通りで、日本女性としては二人目の(その当時で)
コマンダリー・デュ・ボンタン・ドゥ・メドック・エ・デ・グラーブ・
ドゥ・ボルドーの女性のワインの騎士が誕生したのだった。

 ジャンヌダルクにあこがれた遠い昔を思い出していた。
その時私は、“パパありがとう! と目をつぶって頭をたれた。
父が亡くなってからあまり時が経っていなかったから、、、。

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 本来なら着物で参加したかったが、すでに日本ではないからそうもいかない。
(前年のボルドーオペラ座でのベルバカントのギャラでは、
日本から着物をもっていって、彼らに喜ばれたので、、、)

レセプション用の洋服も持ってきていない。
日本を代表するのだから、普段着では申し訳ないし、ビジネススーツではちょっとおもしろくない。
親しいクチュリエがいるrue cambonのシャネルの本店に飛びこんだ。

黒い八部丈のロングワンピースがなんとかあったが、
腕が隠れないし胸も開きすぎているし、どうも恥ずかしくていけない。
パスカルは、裏地につかう黒いジョーゼットの束をもってきて、首周りから腕をすっぽり囲える大きさに切ってくれた。
切り目は何もしないからぼろぼろとほつれてくる。
“これも時にはいいでしょう、、、ネスパ、ケイコ”
“ウイー、メ、、
でも、それしか方法がなかった。

 この時も記念写真と、小さな金の騎士のバッジと一緒に後日送られたきたが、
プレスへの発表もせずに、私の隠れた宝物になっている。

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 そしてもう一つは、二十一世紀になっていただいた
ボルドー、サンテミリオンの、Jurade de Saint-Emilionの授与。
同じ年に田崎さんがいただいて、一緒にあの、サンテミリオンの坂での儀式を歩けるかと思っていたのだが、
年老いた母が病気になって、渡仏はかなわなかった。

 今こうして長い人生を感慨にふけっているのは巴里!
沢山の感謝を込めて、手を合わせた。

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今日も巴里は雨、、、雨
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そして今日の巴里、
16 December 2011 Paris

by pretty-bacchus | 2011-12-16 23:55 | ♧Journey海外2011PARパリ | Trackback | Comments(3)