浅草吉原に残る最期のお茶屋&料亭「金村」を再訪
2009年6月23日 火曜日 晴れ 暑い一日

 今年最初の真夏日の太陽ががんがんと照っていた。
正午ちょうどに、私は神田で、青い空とぎらぎらと輝く太陽と、真っ白な雲の空をながめていた。

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a0031363_4131817.jpg (「萬代」の中から、神田の藪蕎麦が道を隔てたところにある)


 昨年に続いて二度目の神田淡路町の割烹「萬代」。
今回、豊??さんに招かれたのは、私と舞台装置家のM氏。

 昨年10月に浅草に残った最後のお茶屋さんの写真を撮るお手伝いをした。
吉原に残る最期のお茶屋&料亭「金村」の、昭和の木造建築取り壊し前の最期の姿を記録しておきたいという
女将のご希望が豊??さんに伝えられてのことだった。
豊??さんは、ご自分ではちょっと無理なのでということで、カメラ趣味の私への依頼だった。
撮った二十枚ほどのカットを2Lにプリントして、黒い拡張あるアルバムにしてお渡しした。なんだか感無量だった。
この建物がまおなく壊されて更地にされてしまうのかと思うと胸がいたんだ。

http://keico.exblog.jp/7594199
神田淡路町界隈と浅草吉原の最期のお茶屋さん

あれから8ヶ月。紆余曲折の末、今月末に他の人に渡ることになり中に残った小物などを
どこかに納めたいのでということで、Mさんにいらしていただいのだ。

 「萬代」名物の昼の限定の鯛茶漬けのあとは、近くの竹むらの“粟ぜんざいをいただき、タクシーで移動。
吉原の仲之町、この吉原のメインストリートは、いまやSランドの集まりなのだそうだが、
昼間ではぜんぞんそんな感じはない。

 吉原の仲之町の金村。二階建ての小粋な純和風建築。ここが吉原で最後まで残った料亭・金村。
この最後の料亭は、外部も内部も、もう気の毒なほど荒れてしまっているが(八ヶ月前より更に、、、)、
建て付けはしっかりしてびくともしていない、壁にはヒビ一つなく、ふすまの縁のアールの美しさ、
天井の板、網代、壁の腰紙の濃い緑の色も美しい。
美大出のMさんによると、これは今の時代では出ない色なのだそうだ。

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(陰影礼賛の世界の50年前のお茶屋さんの一部屋<<これは昨年10月に撮影)


この江戸の粋さを残して、数寄屋造りの粋を残した建物が、解体されて更地になって、
近代的なマンションにならずにすんだことに、全員胸をなでおろした。

その陰には、父上の古き良き時代から引き継いだ人間関係を重んじて、
この女将を助けてきた一人の日本男児がいたのだ。
それが豊??さん、トヨヨシは名字で、お名前は歌舞伎役者のようなすてきな和之助だから、
きっと粋なお父上の命名なのだろう。70才を過ぎているのに凛として優!
現役の神田にある会社の会長さん。
いつの時代にも、マスコミにも騒がれずに文化継承をひっそりと行っているこういう御仁がいるものなのだ。
(京都のSさん、六本木のFさん、などなど私はそういう方に何人もお目にかかっている幸せ者だ>>more>>に)

 この金村の建築は昭和三十三年で、建築家吉田五十八かその一番弟子によるとされている設計図を
今回初めて見せていただいた。
その51年前の設計図ともいえる、A4より少し大きめな厚紙に書かれた彩色豊かな10枚ほどの絵図には
薄紙が貼られて、
その表紙には鉛筆で文字が書かれている。ガラス作家で重要無形文化財保持者の岩田藤七が、
ご意見を書いてらっしゃるのだ。
1950年代の同時期に、この二人は日本芸術院会員に序せられているから、深い交流があったのだろう。
(本来なら、文化庁とか東京都とかがこういう建物の保存をしてくれると良いのだが、、、。
吉田五十八氏の邸宅は遺されたという。)
 
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(この上に和紙の薄紙が貼られていて、ぎっしりとアドヴァイスが書き込まれている。
その内容がまた素晴らしい! これこそ日本文化の継承だ!)


 昭和33(1958)売春防止法施行で吉原遊郭が無くなったあとも、その界隈でたった一見残ったいや残されたお茶屋で、ここで吉原芸者の芸をみることができたのだそうだ。
江戸、明治の歌舞音曲が脈々と受け継がれたのだろう。

東海道新幹線開通、東京オリンピック開催が昭和39(1964)、昭和41のビートルズ来日公演のずっと前の
昭和の歴史だから、前のお話しを88才の女将と77才の豊??さんは、なつかしそうに話していらした。

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 (私はあせをだらだらかいて、太ってしまってチャンと正座もできないでいるのに、
この女将さんはシルクのブラウスを着て汗一つかいていない!)


 午後三時、外に出るともうすごい暑さ!
くらくらしながら、少し歩いて、これまた古くから残る吉原神社斜め前にある小さな和菓子屋「二葉家」さんで、
名物の糸巻きのような最中を買った。
間口が一軒半ほどの小さなお店だが、その昔はここのお稲荷さんが三社祭りなどで氏子に配られたそうで、
また吉原内の遊郭に和菓子を提供ていたのだという。

 大門を出て馬道の方には、明治の頃からの老舗料理屋さん「桜鍋・中江」、「天麩羅・伊勢屋」がある。
中江店舗は、300機を越える米軍のB29爆撃機が下町地域を襲い爆弾を投下。
深川、浅草を中心に下町中が火の海に飲み込まれた「東京大空襲」にも残ったのだという。
そこには戦前戦後の建物だけでなく、その味と人情がのこっているに違いない。

 炎天下の反射熱でおそらく30度以上の気温だったろうが、私はとても気持ちがさわやかだった。
そして、人のご縁をしみじみと思い感謝していた。

 今日のぎらぎらの太陽が真っ赤な夕陽になって西に沈む頃に帰宅。
今日の日没は19時1分、これから日は段々短くなるが、暑さはどんどん増していくのだろう。

a0031363_2233429.jpg  (2008.10.21の外観)


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http://keico.exblog.jp/7123842
豊??さんに昨年連れて行っていた書いた、浅草三社祭の模様は
浅草神社の浅草三社祭と浅草見番での「くみ踊り」
2008年5月18日 日曜日 晴れ

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(後述)
この料亭には、吉原で生きた<みな子姐さん>の歴史も重なる。
89年で現役のみな子姐さんの芸を拝聴拝見したのは、このあと7月だった。

http://keico.exblog.jp/8616496
 みな子お姐さんの「華より花」の出版お祝い=前章 2009年7月10日 金曜日 

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下記more>>>




馬上少年過(馬上少年過ぐ)
世平白髪多(世平らかにして白髪多し)
残躯天所赦(残躯天の赦す所)
不楽是如何(楽しまずんば是如何)

豊??さんが、せんだっての水谷八重子叙勲のお祝い会にろうじられた、司馬 遼太郎 「馬上少年過ぐ」にある
伊達政宗が晩年に心境を詠んだ漢詩は、つづきがある。

人生意気に感ず 
 功名誰か復論ぜん(こうみょうたれかまたろんぜん)

五言古詩のこの一節、この言葉を色紙に書く人には何人かあったが、
その男の人生を粋に送っている人は少ないに違いない。

幸いにも私は、時としてすごい日本男児にお会いできて、その方々の一時の人生をかいまみさせていただいている。
その多くは連れ合いの知り合いであったり、友人の紹介であったりであるが、
知的好奇心旺盛で男勝りといわれる私は、時には伏してお願いして、そういう方たちの会にお邪魔したりしてしまう。
そんなすごい男性の内のひとり、藤沢武夫さんは、本田技研の副社長を退かれ、
最高顧問として君臨していたほんの数年の間のことであった。

http://keico.exblog.jp/3717874
本田技研の創始者の一人の藤沢武夫氏、2006.06.10

http://keico.exblog.jp/7796724
2009年の年の初めに思ったこと、藤沢さんのことなど

 “けいこさんは、普通の山の手夫人とはちょっとちがうからな〜〜”と褒め言葉とも、けなし言葉とも
思われることを言われたりするが、一般の奥様方がみたら、なんと生意気な女なのだと思うに違いない。
が、それは、長い間仕事人として人生を歩んできたからだけではなく、子供の頃からの両親の教育と
環境にもあったに違いない。なんと幸せな事か!

“生まれは?”
“江戸っ子よ、神田の、”ではなく、それは本郷駒込神明町の生まれで、柳沢吉保の六義園は、
私の遊び場だったという。

 父の書斎には、いつも多くの人が集まっていた。
戦後でなにも無い時期に、家ではいつも食べ物と酒があった。
弘叔父が船会社にいてチョコレートも送ってくれていた。
でも、その酒は、母の着物が一枚一枚質にいれられてのことだということは、ずっと大きくなってから聞かされた。
多くの人が父の酒の場の文化から育っていった。
磁気の大家となった叔父の加藤哲夫もそんな中の一人だった。

かたや母は、戦後の心が荒れた世の中で、お茶とお花を教えながら、三人の子供を育てなのだ。
お月謝を払えない人からはとらなかった。高校の茶道部もご奉仕していた。
新勝寺も、空港公団も、、、、、
お茶とお花の世界で沢山のお弟子さんを育てた日本女性。そして現役。

戦後のすさんだ上野の地下道に、いくつもの花瓶をかけて花を生けて歩いた母。
この日本女性もまた日本文化を継承していってくれているのだ。
ありがとうママ!

今年89才になった母は、現役で茶道と華道の先生をしている。
未だに一人で、京都のお家元に通っている。

http://keico.exblog.jp/3071518
フランスの 魅力を語る 母に感謝
2006.01.23


 
by pretty-bacchus | 2009-06-23 23:59 | ♥Person父母,師友人,人生の宝物 | Trackback | Comments(4)
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Commented by bernardbuffet at 2009-06-25 22:34
古い物を残すのは大変だと思います。単独の建物を残すのはもっと大変で相当のエネルギーがいるのではないでしょうか。町並みを残すといえば、まだ地域で協力しあえるし、観光資源にもなりうるでしょうが、単独の場合はそうはいきませんから。以前、恩師の家が(東京ではありませんが)市の文化財に指定されたことがありましたが、手を入れるにしても何にしても許可が必要で、リフォームもままならないとこぼしていました。古い家は今の生活からすれば住みにくい点もあるでしょうし、そういうハンディを受け入れてそれでもなお後世に伝えたいという強い意思とそれを支える価値観が必要だと思います。そのような志を持った人が良い建築や文化を伝えていくのでしょうね。
Commented by mokonotabibito at 2009-06-26 20:08
日本文化の伝統でしょうか。
東京方面はよく知らないのですが、関西にも沢山ありますね。
映画や小説で描かれた世界が、変化していきます。
バブル崩壊や最近の不景気で大きく変わった場所もあります。
長く長く守られてきたものが、失われるのはあっという間ですね・・・
Commented by pretty-bacchus at 2009-06-28 00:59
bernardbuffetさん、こんばんわ。
歓楽街になってしまった、この町で、たった一軒残ったお茶やさんを料亭として守った女将も大変だったと思います。
多くの人の応援があったことなのでしょう、、、

Commented by pretty-bacchus at 2009-06-28 01:00
mokonotabibitoさん、こんばんは。
日本文化の伝統を伝承していくのは大変なことなのですね。
崩壊の中で遺される美しさをあらためてありがたいと思います。
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