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志村ふくみ著「白夜に紡ぐ」を読む
2009年3月07日 土曜日 曇り

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 すごい! 凄い本が出た。
志村ふくみ著「白夜に紡ぐ」人文書院。

 一気に読んだ。他の事が手につかなかった。
(でも何日も感想を書けなかった)

85才の老女(先生ごめんなさい、一般的にいってです)が書ける本ではない。
まさに怪女だ!
志村ふくみ、いわずとしれた染織家。

 母小野豊から染色の手解きを受け、黒田辰秋・富本憲吉・稲垣稔次郎らに師事。
以来紬織・植物染料の研究と制作に従事している、紬織りの要無形文化財保持者=人間国宝である。
その作品は、それまでの紬織りの範疇を大きく超えて、新しい芸術域に達している。

戦争の経験、結婚、離婚とその年齢の日本女性の多くが経験したであろう女としても苦渋を乗り越えてたどりついた
染めと織りの道。その頂きに達するにはどんなにか多くの言うにいわれぬご苦労があったに違いないのに、
先生のお顔はいつも穏やかで瞳は澄んでいる。少女のような綺麗な声で話し、ころころと笑う。
日本女性が持っている謙虚さと優雅さを失わずに、一方では凛として我が道=作品造りに邁進する姿には
ただただ心打たれてしまう。

 数年前にしばらくの入院の後に不死鳥のように蘇り、切り絵という新しい世界も展開して、
嵯峨の工房で、本来の染めと織りに日々を送り、以前にも増して怪しい凛とした重厚なお作品を発表されている。

先生は随筆家としても、その名は高い。
織と染めの作品集も何冊かあるが、自らの染織の世界の深淵を、文学論を、自然美をたくさん書かれている。
1983年に『一色一生』により大佛次郎賞受賞。92年に『語りかける花』により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞し、
『色を奏でる』『ちよう、はたり』『たまゆらの道』『母なる色』『一茎有情 』『語りかける花』『いのちを纏う』など
多数の著書がある。

自然から命をいただき、糸を染め、色の世界を織る課程と奥深さを語るそれは、おさえた中にも奥深く、
その道を究めた者の語りに味わいがあって、いつも何度もゆっくりとかみしめて読む。

「自然界のさまざまの植物の、花の色、実の色、葉の色、幹の色、根の色で、布を染めてきました」と、
かっては書いていらしたいくつかの著書。
それが今度の著作では、今までとは少し違っていた。

 昨年の福島県立美術館の個展二人展の夜にご一緒させていただいた夕食のおりに
“ようやく書き始めたの、ドストイエフスキー、どんどん書けるの、、、” と、
さらりとおっしゃってらしたが、大先生に失礼かもしれないが、それは乙女のように愛らしい笑顔だった。
あれからまだ三ヶ月しか経っていない。

 春一番が吹いた日に、志村ふくみ先生から達筆な直筆の封筒とお手紙でお送りいただいた時にはほんとうに驚いた。
え〜〜もう、書き上げたのだろうか、、、と。
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  (先生の染めと織りのお作品の布地風のカバーにカンジンスキーのカット)

いつもは後書きから読むのに、まず装丁と、表紙の次からの4ページのカラーページに目を奪われた。
濃い藍色に白ブルー金銀の小さい切り裂の貼り絵で創られた僧院らしき一枚の絵、真ん中に輝く十字架!
題して「聖夜」二ページにはセザンヌの言葉を自筆で書かれ、次は高村光太郎の「五月のウナ電」を書かれた作品が。
表紙、装丁、装画、と全てをご自分でなさっていらっしゃる。
「表紙および本文中の挿図は著者による、とあって納得。
ご自身で全部をなさったいうことに、おそらく人生の集大成という気持ちの先生の真意を感じてしまう。

これはうかうか読めないぞ、、、就眠儀式で横になって読むのは失礼になる。
ぱらぱらと数カ所を読んだだけで週末を待った。

 目次を見てさらに驚愕。
「繭文」「白夜に紡ぐ──ドストイエフスキイ・ノート」「折々の記」の三部からなる、すべて書き下ろしのエッセイなのだ。
(目次の詳細は下段に)
読み始める前に、すでに今までの作品とはかなり違う、そんな気がした。

 「ものごころ、で、ご自分の生い立ちを語り始め、中心はドストエフスキー論、そして最後の章で、
お母様のことから黙示録にいたる。

ドストイエフスキー(先生はドストエフスキーではなくこうよんでいる)の作品を読み込んでいくその時に感じたことを、
作品にのめり込んでいく課程が見事に書かれ、のめり込まれていく著者の文に、読み手がぐんぐんのめり込んでしまう、、、
すごいとしか言いようがない。
85才の女性がこんなことを出来るのだろうか、とすら思えてしまうこの作品は、
いや今の先生だからこそ、人生を経てきた今だからこそ、その全てをかけての作品に違いないと、、、。

 17才の時に養女であることがわかり、その後つかのまの短い間に語り得た、病床のお兄さまの枕元で読んだ
『カラマーゾフの兄弟』、その時に初めて読んだドストエフスキーを、その後も何度も読み、後年
厳冬のロシアへの旅のあと70才をすぎた十数年前から、また読み出して全集を何度も読破し、
そのたび新しい発見をして作品にのめり込んだ。
何人ものドストエフスキー論も愛読し、彼の作品の背景にある聖書の世界、キリストの姿を、
時を越えて国を超えて、自分の手元の心に引きずり込んでいく様を、こんなにも生々しく書けるものなのだろうか。
そして、その行間にほんの数行、今までの著書では語られなかった、生の秘密などをさらりと書いているのだ。

「糸を紡ぎ、染め、織り……どうしたら自分の思うような織物が出来るのか。
長の歳月、機の前で思い悩みながら絶えず心に問いかけてきた(中略)

「とりわけ青春の日以来繰り返しひもといたドストイエフスキーの作中人物たち、その苦悩と哀しみへのますますの共感、
白夜のごとき人生の暮れなずむ夜の涯で、 祈る気持ちでいとおしく、愛すべきものたちに想いを寄せる、
仄かな光をことばに託した」


 その読書は、多くは奥深い山荘で行われたとあり、ああ、あの山荘なのだと、十年ほど前の記憶が、
昨日のようにおもわれる。

それは、京都から二時間ほどのあるひっそりとした山村、
車がやっと一台通れるほどの細い坂道にその素朴な山荘はあった。
自然のままの裏庭の向こうは、細い渓流が走り、すぐに山の崖がせまり、
冬には雪に埋もれて買い物にでかけることすら出来ない、ご近所は少し歩かないと無い、その山荘にこもり、
80才をすぎた女性が一人ドストイエフスキーの悲壮かつ壮絶な悲劇を読む更けるのだ。
まるで、シトー派の修道士のごとくに清貧への回帰のように、、、
常人ではない。

 以前は、その山荘で糸を紡ぎ、機も織ってらしたことがあったようだが、もう大分前にそれはやめたのだと言ってらした。
お訪ねしたときは、すでにドストイエフスキーを再読しはじめていたのだと、今になって思い描いている。
細い村道に面した寝室には、山荘でだけ読むのだろう本箱がおかれ、文庫本のその本を見せてくださった。
リビングルームには、いつもノートが置かれていて、思いつくままに筆が走る、、、

 本の中で書かれているように、先生は、ご一緒させていただいた旅の時もいつも本を手放されなかった。
金木犀の香りに包まれる街、桂林の数時間の船旅の時も、西安敦煌の旅の時も、
小さなスケッチブックに絵を描いてらした。
大きなカメラを何台も首にさげて写真を撮っている私は少し恥ずかしくなり、いったいどうしたことだろう、、と、
ふと自己嫌悪に陥るほど、先生のそのお姿は、すがすがしかった。

 この作品を読みながら、私の脳裏のどこかで、先生との思い出とオーバーラップして、何が現実かわからなくなり、
ふと読むことをやめて外をみる。
高きにある方であり、母ほどの年の違いがあるのに、なぜかとても親しみを覚えてお付きあいをいただいて、
もう三十年ほどになる。

 この本「白夜に紡ぐ」の中心の白夜に紡ぐーードストイエフスキイ・ノートの最初にあるのは、長年逡巡してきた思いを、

「今夜私はとうとう書かずにはいられなくなって筆をとった。
ここ数年思いつづけ片時も脳裡からはなれないこの想いをある時は否定し、
私のようなものが身のほど知らずにも、思い上がって書こうとしているなんて、と思い惑い、
世界に何百万という愛読者のいるドストイエフスキイに対して冒涜であるとさえ思い、一介の読者として
これから先も読みつづけていけばよいのだ、こんな思いは葬り去るべきだとここ数年思いもし、
なかば気持ちをおし静めてきたものの、またしても読んでは書きたくなり、
ますます深みにはまりこんでゆく自分を感じている。
それにしても相手は大きすぎる、深すぎる、読めば読むほどその想いは深まり、またたく間に数年が過ぎ、
私は年をとってだんだん読むことも書くことも出来なくなるのではないかと思っていたが、
事実は反対でますます寸暇を惜しんで読みたくなり、同じ作品を三ども四ども読み、だんだん速度も加わり、
普通なら陰惨でくどくて、悲痛きわまりないところを何度も読みかえし、
その度に胸をひきちぎられるほどひきずりこまれる」


 これが80才を越えた女性の言葉とは、とうてい思うことができない、、、、
70歳台後半からドストエフスキーの本を片時もはなさず、全作品を何度も何度も読むことなど出来るのだろうか。

『死の家の記録』は、自分自身が囚人になって陰惨な牢獄で底知れない人間同士の相克の中で生活しているような
気になっているという。凡人の私には想像できない精神性である。

 伝統を縦糸に、自然からいただいた色と現代を横糸に染めて織りあげてきた染織家は、
第一章では、縦糸のごとくに、幼少時代の事を語り、
第二章の白夜に紡ぐ ドストイエフスキイ・ノートで、横糸を自由自在に駆使して繰り返し読んだ
ドストイエフスキー作品をこれでもかこれでもかと語り、しかもその行間に、段落をつけることもせずに
ご自分の深い思いをほんの数行いれていく。
そして読者を、彼女がドストイエフスキーを読んでいる時のように、ぐんぐんとのめり込ませてしまう。
第三章の、この本の題名となっている、白の世界と、お茶の緑の世界と「本当の赤はこの世に存在しない」と
十七歳の時に実の母に言い切った、その赤の自然界の秘密に迫る。
すごい!

「糸を紡ぎ、染め、織り……どうしたら自分の思うような織物が出来るのか。
長の歳月、機の前で思い悩みながら絶えず心に問いかけてきた(中略)

とりわけ青春の日以来繰り返しひもといたドストイエフスキーの作中人物たち、その苦悩と哀しみへのますますの共感、
白夜のごとき人生の暮れなずむ夜の涯で、 祈る気持ちでいとおしく、愛すべきものたちに想いを寄せる、
仄かな光をことばに託した」


 自然から命をいただき、糸を染め、色の世界を織るということは、天から与えられた志村ふくみという一人の女性の宿命であり、
その過程において、神への祈りとして昇華していっているに違いない。

 万葉集、古今集、新古今、もちろん源氏物語と日本の文化を学び享受したとあとに、70代でシュタイナーを研究し没頭し、
宇宙から響いてくる色彩の秘儀をゲーテの色彩論の中にその原点を見いだし、その最晩年に達したその頂点で読みふけった
ドストイエフスキーの中に、ご自分の最後の姿を、死の世界へと辿り着き導かれる崇高なプレリュードを
見いだしたのだろうか、、、

17才の時に兄と過ごしたわずか数年の時のまま残るどこか幼げな、いや純な、そして激しい心は常に縦糸としてあり、
なりわいのために染め織る糸の一本一本に人生の喜怒哀楽を横糸として織り込めていったに違いない。

「植物からあたえられる色彩の中に、 多くの不思議を見た、法則を感じた。 と、
それだけでも充分に常人では出来ない世界をこの世に顕してきたが、今こうして、
ドストイエフスキーにしたることによって、神の領域に入り込み、更に又一つ上の世界に遊泳し、
それは自分自身が神に召されて天井へ舞い上がる前奏曲であるに違いない。

 まだまだ書きたいと最後に語るこの怪女の次の作品が待ち望まれる。
著者をよく存じ上げているということで、読後感が一般読者とは違ってくることはしごくあたりまえで、
少し、いや、かなりどっぷりと《志村ふくみワールド》に浸った感じであり、
それはずっしりとした頭脳疲労感深いものとなった。

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   新幹線内で志村ふくみ小裂帖を読む。
  片手で本を支えて、右手でブラインドシャッターを(ZD広角ズーム7~14mmで)

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以下目次より。
繭文
ものごころ/随縁/自由な魂/兄の死/織物への道/色に目覚める/日本の色――万葉の色/日本の色――
古今・新古今・源氏物語の色

白夜に紡ぐ ドストイエフスキイ・ノート

サンクト・ペテルスブルグの街角で/虫喰いの頁/虐げられし人々/死の家の記録/罪と罰/白夜/
ドストイエフスキイ・ノート

折々の記

松園と母/お茶はふしぎな木/赤の秘密/白と赤 白と赤 雪の造形 熏習 花 大沢ノ池の御仏達 苧桶の水指 
遊糸楽竿無上悦 小さい本 伊吹の刈安 聖餅箱とコアガラス茶入/老いの重荷/五月のウナ電/魂が鳴らす鐘/
黙示録的収支/宇宙のはじまり――香り高き霊学。
あとがき
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ブログ内、志村先生関係の記録一部(日にち順に一部)
http://keico.exblog.jp/3035790
2006.01.17
社会学者 鶴見和子さんの志村ふくみ論


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2006.01.21
憧れる 母なる人は お国の宝, その一


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神の手、その二


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2006.01.22 その3
晩年に 友の輪みのり 彩輝き


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志村ふくみの世界 by 鶴見和子
2006.01.22 ,志村ふくみの世界(その4)


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2007.02.23  色に生き 彩を織りなす 女路

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2007.02.25 、人生の 三寒四温 踏みしめ

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福島続き、志村ふくみの色彩論と感性

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志村ふくみ&洋子と月の会(都機の会)
by pretty-bacchus | 2009-03-07 23:59 | ♥Person父母,師友人,人生の宝物 | Trackback | Comments(3)
Commented by mokonotabibito at 2009-03-09 20:01
志村ふくみさんですか。
すごい人がいるものですね。
独仏露の文学は好きなので興味深くブログ記事を拝見しました。
私も読ませていただこうと思います。
こんな方もいるのだ。まだまだ人生先が長いぞ!
Commented by pretty-bacchus at 2009-03-10 19:42
mokonotabibitoさん、この方は、ほんとに凄い方なのです!
ほんと、まだまだ人生先が長いですね、、、

Commented by xvhyrtesss at 2011-11-26 16:39 x
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