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夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン
2006.08.25

  “ダメですね。まいっていては。らしくないですよ。
 ブログを見て、ワタシの体調が悪いことを知って電話をくれたというWさん。
 “この頃全然でかけてないでしょ、、、。買い物も映画も、好きなオペラも観てないでしょう、、、、。

  そう言われればそうだ。心身共に余裕がないのだ。
 “7時に出てこられませんか。恵比寿ガーデンプレースで待ってます。
  突然のお誘いに予定を変更して出かけた。
 五十日の金曜日の雨模様で道は混んでいた。
 数分遅れて着いた私は掠われるように、東京都写真美術館の一階奥の映像ホールに導かれた。

  『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記録』
 今年初めに封切られて、見たいと思って観られなかった記録映画である。
 二週間だけ再演され、今日は最終日なのだそうだ。

  チュイルリー公園を背に語り初めるカルティエ=ブレッソン。
 人前に顔をさらすのを嫌い、自分自身についてほとんど語ることの無かった
 カルティエ=ブレッソンが目の前で、自分の作品を一枚一枚見せながら語っていた。
  二十世紀の全てを生きた彼は(1908~2004)、二十世紀の歴史を見事にまで記録に納めていた。
 スペイン内戦、パリ解放、ガンジーの葬儀、ロシアの解放、インドネシア独立の瞬間、中国宮廷の
 最期の宦官などで歴史的決定的瞬間を撮り続け、報道写真家の先駆者であったカルティエ=ブレッソン。
 シャネル、マチス、ピカソ、ルノアール、ジャコメッティーなど綺羅星の如くの芸術家達から、
 黒人、娼婦、戦場の人、道行く人々、子ども達、街の輩まで、生きる二十世紀を撮ったカルティエ=ブレッソン。

  ロバート・キャパらとともに、写真家集団“マグナム”を設立し、ライカを片手に歴史的瞬間を撮った彼は、
 写真集『決定的瞬間』で独自の写真美学を確立し写真を芸術の域に高めた写真家であったといわれている。

  寡黙な彼が、この記録映画に応じたのは、亡くなる二年前の93歳(2002年)の時であった。
 作品は写真集で沢山見ていたし、十年ほど前に京都の何必館・京都現代美術館で、
 オリジナルプリント数十点を観る機会があったが、それらはそれぞれ部分的であって全体像ではなかった。

  映画は親しかった写真家エリオット・アーウィットや劇作家アーサー・ミラーなどが
 インタビューする形で進められ、カルティエブレッソンが四つ切りくらいにプリントされた作品を
 自分の前にかざしてみせて紹介し、 彼の人世の背景を語るドキュメンタリーのかたちで創られていた。

  写真はもちろんのこと、そのドキュメンタリーがなんともいえず素晴らしかった。
 (監督はハインツ・バトラーというスイス生まれの高名なドキュメンタリー作家だという)
 ライカで撮られた彼の作品は全てモノクロ。彼の部屋のカーテンはオフホワイト。
 アフリカのプリミティブな彫刻とカラフルな室内装飾の小物の色が、
 モノクロ写真を持つ彼の後ろでアクセントとなる。
 テーブルの上におかれたグラスにはいつも白ワインが、、、
  彼の衣服は、時にはベージュと青の縞のシャツに紺のセーター、時には赤いセーター、
 別のシャツの上に黒いVネックのセーターと7〜8回変わり、厳粛な写真の時は、
 黒のセーターの上に黒のジャケットであった。
 そして彼の衣服が変わる毎に作品の時代が変わり、撮影の様子や期間がうかがわれるようだった。

  ネール首相の写真を撮ることになっていた前日に、首相に今までの自分の作品を見せていた彼。
 “その中の一枚をみてネール首相は、ラ・モール、ラ・モール、ラ・モール(死)と三回つぶやいて部屋を出たのだ、
 そして15分後に暗殺されたのだ" 昔を想って語るカルティエブレッソン。
 まさに決定的瞬間がカルティエブレッソンによって撮られて世界中に発信されたのだ。
 ベットで骸とかしたネール首相、荼毘に付される葬儀の場、民衆のどよめき等々、
 それらの決定的瞬間は偶然ではなく必然であったに違いない。

  BGMは彼がすきだったというバッハ調の曲がずっと格調高く流れていた。
 小さい頃から絵が好きだったカルティエブレッソンは、六十代後半からはむしろデッサンを描くようになった。
 映画の後半は、ルーヴル美術館を何度も訪れるカルティエブレッソンを追っていた。
 レンブラント、フェルメール、フラアンジェリコなどの前で立ち止まり見入る、杖を突いたハンチングベレーの姿は
 更に格調高く孤高の美しさであった。
 “良い絵を観た後は、一杯やりたいね。彼の嬉しそうな眼差し。
 なんと素敵な老人だろう。

  そして最期の場面がまたイ〜〜イ!
 瞬間を写し撮る時のあの手あの笑顔!
 生前に一番会っておきたかったフランス人であり写真家であった。
 あのごつい、あまりり大きくない手をギュッと握りしめてみたかった。
 (彼のすべての指は第一節がとても大きかった)。※

  カルティエ=ブレッソンの死とともに写真の20世紀は幕をおろしたのだ。そしてこの映画は
 “奇跡”のドキュメンタリーだったのである。
 アデュー・アンリ・カルティエ=ブレッソン! 
 しかし貴男の写真は二十一世紀に遺りました。

  一時間十分という短編だったが充実した時間が流れた。
 映画が終わっても誰もすぐには席を立たなかった。

  “イイ作品を観た後は一杯いきたいね”ワタシモ、、、、
 自然に足が向かっていた麻布十番の店で、半月ぶりに美酒美食を味わいシェフの愛ある言葉をいただいた。

  幸せな気持ちで週の最期を締めくくった。
 ありがとうWさん。素敵な贈り物の一時をいただきました。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ※ 同じ1904年生まれのピアニストのウラジミール・ホロヴィッツの手は、ごついがとても指が長いかった。
 その手で、それも両手で私の手はぐっと握りしめられたことがある。
 そしてその時いただいたある言葉は私の宝物の一つである。
 遠い昔のことである。
夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン_a0031363_1254897.jpg
  帰宅してすぐにチラシと小さな写真集をカッシャッ
夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン_a0031363_1274643.jpg
  (ワインはシャサーニュ・モンラッシェの赤1993年、シャサーニュの赤は珍しい)

映画の中で評論家が言っていた言葉
 「一枚の写真には、いくつものストーリーがある。それが良い写真だ」夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン_a0031363_557445.jpg 
  50年後のパリのサンジェルマン。写真はアンリ・カルティエ=ブレッソンではなくヘタノヨコズキ敬子K。
 カメラはライカではなく、小型のLUMIX LX1
夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン_a0031363_5584894.jpg

 夕方のカフェ・ドゥーマゴー

近くのマルシェではすでに酔ったおじさんが、、、、
夏の夜に歴史彩るアンリ・カルティエ=ブレッソン_a0031363_5594730.jpg

by pretty-bacchus | 2006-08-26 05:26 | ♠Art&美術,詩歌,展覧会,お稽古 | Trackback | Comments(2)
Commented by k7003 at 2011-08-04 02:57
ヘタノヨコズキ敬子なんかじゃなく、頭をとるとHCBとなるような新しいお名前を、フランス語に堪能などなたか、考えてあげてくださいましな。(^_-)
Commented by pretty-bacchus at 2011-08-04 05:09
k7003さん、ここまで飛んで読んでくださったのですね、
ありがとうございます。

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