立春に母が唱うのは、昭和初期の<あけみの唄>
2015年2月4日 水曜日 晴れ 立春

 立春! 借景の冬芽もすっかり膨らんだ。

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歯医者さんの帰りにいつものシェシーマでお紅茶アールグレーとケーキをいただく。
真っ正面に夕陽がぎらぎらは、南に向かっているはずなのに、西なのだろうか?

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(ボケてしまったが、クグロフのフルーツぞえ)

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 母から電話、母はいつものように夕食を終わった頃なのだろう。
我が家はちょうど始める頃、、、、。
今夜はTさんから送っていただいた下仁田葱と和牛とこんにゃくセットで、
ワインは2003年のシャトー・ドゥ・ティルガン。美味!

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2015年1月9日 金曜日 晴れ
母との話しは戦後七十年の日本の歴史そのもののようだ

 電話が繋がると共に母は突然に歌い始めた。

あけみ悲しや 何処(いずこ)へ往く
   酒場の花と ひとはいうが
      酔うては醒める 酒のよな
         恋はすまいぞ ひとが泣くもの

一番を唄い終わると、、、。
“覚えてますか、、、、お父さんがお客様達と良く話してうたっていたでしょう、、、”

そう、私も良く覚えている。
二番は一緒に歌い始めたが、私は途中までしかついていけない、、、。

あけみ悲しや 何処へ往く
   いまさらさらに 思う我が子
      ゆりかごゆりて 笑みし日を
         恋ては泣くよ 母なればこそ

 そして母は三番の終わりまで歌いきった。

あけみ悲しや 何処へ往く
   恋にも世にも 敗れ果てて
      せめて子のため 永らえよ
         あああ あけみ 何処へ往くよ


 佐藤春夫と谷崎潤一郎とが配偶者を交換した「細君譲渡事件」と同じように、
父達の時代は、文学者たちと女性の話は事実が沢山あったようだ。
(今のように当たり前になってはいなかったのだろう、、、)

東北帝国大学の物理学者の石原純と歌人の原阿佐緒とのこともその一つだったようで、
この<あけみの唄>の歌は、歌人の原阿佐緒が作詞し、
古賀政男が作曲・編曲し、関種子が歌ったもので、当時の文学青年達は熱狂したのだろう。
 この時代には祖母の石動丸の歌も、時代がかわってきていたのだろう。
でも<戦友>は歌っていたような、、、そして<春はヴェニスの恋の夢、、、>。

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2015年1月3日 土曜日 晴れ
お正月に子供の頃のことをいろいろ思い出されて、、、

 苦しい時代なのに酒とおばあちゃんが作る肴で、デカルトカントetc.と論を交わし、
時にはこういう歌を歌い談じていた中から医者となった小林よういち、学者となった浅井そうめい、
日本の有数の磁気学者となった叔父の加藤哲男、教育者となった秋葉○△、宗教学者のじんやさんたちが
育っていったのだ。
のんべいのままのOさんも最後まで母を、三保子さん、みほこさんと慕ってくれていた。

そういえば酒がなくなり、前の玉井さんがしまってしまうと、歩いて五分ほどの、
たしかハマヤという酒屋に買いにいかされたものだ。
肉やも魚やも酒屋もほとんどがお帳面でつけだったので、年に数回の支払いの時には、
母の着物が一枚一枚すくなっていたなんて、大きくなるまで知らなかったのだ。

 テッチャンこと加藤哲男叔父が、東京工大を卒業して名古屋の大同製鋼株式会社に旅だった朝のことを
はっきりと覚えている。1950年代半ばのことだった。
車でもなく祖母の家のお供も連れずに、一人で大きな皮のバックをもって、
二つ目の角を曲がって見えなくなるまで送ったのだった。たしか私は五年生の頃だった。
てっちゃん叔父は、学生時代に創った蓄音機とバッハのレコードを置いていってくれた。
その頃はまだ目黒の叔父もお元気だったので、きれいな包み紙のチョコレートもよく届いていた。

 テッチャン叔父はその後大同特殊鋼で、多くの磁気関係の新技術を開拓して会社に、
いや日本の磁気界に大きく貢献した。
特許はすべて従属する会社に置いてきたが、彼が発明したものはほとんどの車会社の今の車にも
使われていると聞いている。

著書のいくつかは、まだアマゾンで検索できた。
<技術者のための磁気・磁性材料  <ファインスチール (新素材100)  <入門 電磁気学
<磁石の世界 など。

 弟のお通夜と告別式に名古屋から駆けつけてくれた叔父ももう八十後半。
数年前に連れ合いを亡くして、今は子供達のすぐ近くで一人で余生を送っている。

 日本中が貧しかった戦後から右肩上がりの復興をとげて、やがてバブルに突入し、
そして突然に幕を閉じて昭和という時代は終わったのだ。

 亡くなった弟の位牌の前で毎日のように涙を流し憔悴していたという母が、
すこしずつ元気を取り戻したようで、ゆうちゃんも私たちもほっとしている。
まだまだ元気でお弟子さんや私たちを元気づけてほしいものだ、、、。
もっともっと私たちが知らないことが母の脳裏には沢山あるだろう。
何度でも聞きたいものだ、、、。

  今夜も寒い。日本中に寒冷前線がうごめているようだ。
春よこい〜〜は〜やく来い〜〜〜!

〜〜〜〜〜〜
http://youtu.be/aMifHGvUvCs
あけみの唄
作詞:原阿佐緒   作曲:古賀政男   歌唱:関  種子
<<<click すると聞けると思います。

<あけみの唄 関種子>
この1923年の歌のバックには色あせたセピアの大正の写真が沢山ある。
次回に母にあったときには見せてあげたい。


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more>>>以下ウィキペディアより、
http://ja.wikipedia.org/wiki/原阿佐緒

物理学者で『アララギ』重鎮の歌人であった石原純との恋愛が問題となる。
石原には妻子があったため『アララギ』を揺るがす大事件となり、島木赤彦や斎藤茂吉は
石原に離縁を説得したものの受け入れなかった。
同年8月に石原は東北帝国大学を辞職。二人は同棲を続けた。
この事件により阿佐緒は『アララギ』を事実上追放され、石原も『アララギ』を脱会した。
また、阿佐緒を擁護した古泉千樫、三ヶ島葭子も『アララギ』を離れることになった。1924年(大正13年)に北原白秋、前田夕暮、釈迢空らによって歌誌『日光』が創刊されると、
四人とも参加に至った。

阿佐緒1929年(昭和4年)、大阪・梅田にバー「阿佐緒の家」を始める。
石原 純は妻子の許に帰り、原はバーを転々として1943年(昭和18年)帰郷。
歌壇には
復帰しなかったという。
1969年(昭和44年)2月21日、神奈川県足柄下郡真鶴町で心不全により死去した。満80歳没。
長男は映画監督・原千秋、次男は俳優・原保美で、保美は画家中川一政の長女・桃子と結婚した。


by pretty-bacchus | 2015-02-04 23:58 | ♥Person父母,師友人,人生の宝物 | Trackback | Comments(5)
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Commented at 2015-02-06 01:45
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by pretty-bacchus at 2015-02-06 01:58
鍵コメントさま、了解です。パ・ドゥ・プロブレム。

Commented by k7003 at 2015-02-07 17:32
鍵です、鍵です。

お近くではありませんか?心配しています。
Commented by pretty-bacchus at 2015-02-08 02:08
鍵コメントさま
ありがとうございます。

Commented by 中国神話ロマン人 at 2015-10-04 21:01 x
 うどんは公家さんが中国から持ち込んだのが定説で、京都を中心に伝播したのが一般的な見方。一方、蕎麦は縄文文化圏が強く残った地域で、おおむねフォッサマグナの以東がその領域である。しかし不思議なのは、出雲(島根県東部)と伯耆(鳥取県西部)の国は飛び地のように蕎麦の文化圏であるのがモータリゼーションが起こる前の食生活統計の調査で出ている。
 出雲と伯耆ときいて古事記を思い浮かべる方は碩学である。そうこれは国産み・神産みの女神、イザナミ神の墓所(島根県安来市の比婆山)があると古事記には記されている。この符合は偶然なのか?
それではつまらない。この分布は弥生時代に栄え、古墳の先取りをした四隅突出墳丘墓の日本海側の分布と符合するからだ。太平洋側にはまったくなかった高度な世界が当時は日本海側に広がっていた。
 そこで私は思うのだ。縄文期の文化と融合した渡来人が古代出雲で、それと違う流れの渡来人が西日本に流入し始め、古代日本を作ったのだと。だからこそ日本神話が天皇にそれほど都合のよいことでない出雲をなかなか消せなかったのだと。それが日本の文化のいいところでもある。基本は正直なのだ。
 弥生時代になると、アメリカ映画の西部劇のようなもので、縄文的人々は東部へ東部へとおしやられていく。そのなかで、最後まで最西の出雲は残ったし、西日本系の政権は、軍事的ではなく文化的進行に切り替えたので、昭和時代までこのような食文化の分布図が残ったのではないだろうか。
 どうして縄文的弥生人は出雲を死守したかったのか?答えは出雲大社を含め、松江、安来などの場所に残る、考古学、神社巡りなどを行うことが必要だと思い、退職後の大きな観光計画となっている。
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