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☆回想のわが巴里の街1965~1973>>七夕に昔の旅を振り返る
2005.07.07
☆回想のわが巴里の街1965~1973>>七夕に昔の旅を振り返る_a0031363_21252852.gif

 ユネスコで世界遺産が採択された1972年に、私はパリに住んでいた。
遠い昔のことである。
最初のパリへの旅は1966年。凱旋門もなにもかもパリの街の建物は真っ黒だった。
アンドレマルローの案で、それらが荒い流されて、60年代後半にはパリは白く生まれ変わった。
70年前半の4年弱を私はパリで過ごした。逆単身赴任という珍しいケースであった。

 パスポートが自由にとれるようになって数年がたっていた。パリー東京間にはジャンボジェットが就航して、
日本からのお客様が急速に増えはじめていた頃である。
 フランス語もおぼつかないままに到着の翌日から仕事についた。
最初の一年ぐらいは泣いて暮らしたかもしれない、、、。
でもパリで住んだ経験がなかったら今の私はない。

 料理上手な祖母と、茶道・華道の先生という日本的な母と、西洋の影響を沢山与えてくれた父のもとで育った私は
わがままな娘であった(であろう)。
大学を終わり社会人4年目にパリで一人暮らしをしたことは人生の大きな一つのステップであった。

 写真は四年生のときに父がくれた二眼レフで始めた。
隣の電気屋のお兄ちゃんが現像を教えてくれた。叔父達の影響もあったろう。

 最初のパリの旅行の写真が友人に認められて、巴里という写真展が有楽町の西銀座デパートで行われたのは
1966年?
ショーウィンドーをぐるっと囲んだ私が撮った写真は、当時の人たちに羨望すら与えたようだ。
萩原朔太郎の有名な詩「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し、
せめては新しき背広を着て気ままなる旅にいでてみん。」が実感の時代である。
 凱旋門の上でであった尼僧とシャンゼリゼ通りを縦長の一枚に納めたショットが
大きくのばされて話題にになった。
(あるカメラメーカーにお渡ししたそれらの原盤も写真も結局私の元には返ってこなかった)

 その三年後にパリの駐在員としてパリに住み始めた私は、
泣きながらのパリの生活をすこしずつ写真が癒してくれた。
世界遺産という対象ができたこともきっかけだったかもしれない。
私の世界遺産の旅ははパリセーヌの河畔から始まった。
そして「よ〜〜し。世界遺産をひとつずつ訪れよう!」と、、、。

 ユネスコが募集した世界遺産写真コンクールに5点の写真を応募したのは、ず〜〜と
後のことである。
日本が世界遺産を採択したのは1992年。その後世界遺産の数はふえて今では700以上。
もはや重いカメラをもたずとも一生かかっても回れる数ではない。

 年賀状を世界遺産で作り始めて10年。今年から自家プリントになった。
スキャナーとプリンターが進歩して、その上経費節減の気持ちは思わぬ効果を生むことになった。
 さあ、、、来年はどの国から選ぼうか、、、。60カ国の旅の思い出がまわる。
彦星と織り姫が年に一度の逢瀬の頃になると、年賀状のことを考えている。
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by pretty-bacchus | 2005-07-07 07:58 | ☆Life in Paris巴里に暮らし | Trackback | Comments(0)
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